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【批評家・イン・レジデンス】文:マイケル・ラニガン
2025.6.13

2024年のフェスティバル会期(10月5日~27日)に合わせ、EU代表部が主催、ゲーテ・インスティトゥート東京が運営する「批評家・イン・レジデンス@KYOTO EXPERIMENT 2024」が開催されました。参加したEU出身の批評家によるレポートを掲載します。
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スタンドバイミー
そこは、どこにもたどりつくことのない曲がりくねった道であった。堀川御池ギャラリーの展示室には5台のランニングマシンが点在し、黒い反射床の上をうねるコードですべてつながれている。
観客は薄い銀色のテープでパフォーマンス空間から仕切られていた。テープの向こう側にはコーヒーカップを3個載せた丸テーブルがあり、周りに椅子が数脚置かれ、そのうち一脚は倒れている。
一台のランニングマシンは机の下にあり、上にはアナログ・シンセサイザーとミキサー、サンプラーが並んでいた。赤・黒・緑の大量のケーブルとちぎれたテープが、もつれたりねじれたりしながら机の端から果てしなく飛び出し、そのせいで、私たちは現実世界を覆う蓋の下に目を凝らし、内部エンジンを覗き込んでいるような感覚に陥るのだ。
ランニングマシンに電源が入ると一斉に電子音を発し、その後ギャラリーは、渦巻く風の音に満たされた。ゆっくりと、能楽師の田中春奈が登場する。黒と灰色の衣装を身にまとい、観客に対して背を向けたまま緩やかに歩を進める。
「昼に起こりし 事のありけり」と、一本調子だが震える声で田中は謡う。「暮れに至りて 災い来たる」
坂井遥香、なかむらさち、野村明里、米川幸リオンの若い演者が4人、田中に付き添っていた。超然としてこの世ならぬ様子で、4人はランニングマシンに乗る。
「わたしたちに⽬的はありません。すでに死んでいるから」と4人は歩きながら謡う。「コーヒーも飲みません。(中略)わたしたちには、⾏き先がありません」
それでもなお目的地に憧れて言う。「以前⽣きていたから」
テンテンコがシンセサイザー機材から自作したドラムマシンがポンとかガタガタとかといった音をゆっくりと発するのに同調して、ランニングマシンが回転する。風が放つうなり声はミニマリズム風のBGMへと変化し、劇作家・演出家の穴迫信一とダンサー・振付家の捩子ぴじんの共同制作による独創的で一風変わった作品『スタンドバイミー』が眼の前で繰り広げられる。
ロブ・ライナーが1986年に監督した成長ドラマである映画『スタンドバイミー』から緩やかに着想を得て、KYOTO EXPERIMENTで同名の演劇作品を作ることほど実験的なことがあるでしょうかと、後に行われたポスト・パフォーマンス・トークで穴迫は語った。そして、こうしたレッテルをひっくり返したいという思いこそが、90分間展開するこのドラマを駆り立てているのである。
しかし、スティーヴン・キングによる中編小説『スタンド・バイ・ミー——秋の目覚め』の翻案であるライナーの映画では、1950年代のオレゴンで死体を探す4人の少年の跡をたどるのに対して、穴迫と捩子は、死後に都市をさまよい、生身の身体を見つけようとする4つの霊魂を追う。しかしそれよりも決定的に重要なのは、穴迫と捩子が4人の亡霊を時間の外側に置き、亡霊の記憶をずたずたに引き裂いてアイデンティティを消失させることによって、ライナーの描く子供時代への切ない郷愁を脱構築していることだ。
物語全体において観客は、生と死の境を探る形而上学的な旅を体験するが、瞬間瞬間のやり取りにおいては、ばらばらになった社会と、疎外された若者の話が語られる。登場人物たちは燃え尽き、失望しているように見える。
例えば、死者の一人であるクミが死後の世界から兄と話すのを手伝うという、物語の中心をなす任務を実行しようという意欲をもってしても、登場人物たちを急いで行動させるには至らない。クミは大部分の時間、行動するよりもタバコを吸うことに満足しているようである。能を通じてコミュニケーションを取るという解決策が後に見つかった際には、クミとその仲間たちが能の緩慢なテンポに批判がましいことを言うのだから、皮肉なことだ。
こうした死後の生をめぐって蛇行する道の表現を通じて、観客は初めから、街谷たちにただよう無目的感に気づかされる。ランニングマシンは、もともと19世紀のイギリスの刑務所において懲罰用の器具として考案され、後に自己向上の道具として取り入れられたが、田中が謡うようにここでは「目的のないさすらい」を体現している。結局のところランニングマシンとは、どこにもすぐには行きつかないようにする手段ではないだろうか。
穴迫と捩子の描く死後の世界は、天国のような空間ではなく、謎めいた憑在論的なあわいの領域、すなわち過去と失われた未来とが響きわたる地下室の様相を呈しており、その特異性は若者の疎外というテーマを示唆している。これはテンテンコが生演奏するサウンドにも引き継がれていて、レトロフューチャー的なエレクトロニカと、事前録音したアコースティック楽器演奏の不明瞭なループ再生とがコラージュされている。
『スタンドバイミー』の風景は無快感症に満たされている。それは、登場人物たちがかつて住んでいた家にそっくりではあるが、壁や床板、個性がすべて取り除かれ、残るは配管と配線、そしていくつかの家具だけだ。場としては、亡霊たちは生者と同じ空間を共有している。しかしその瞳からはあらゆる美が奪われ、そもそも彼ら自身もほとんど目に見えないのである。
登場人物たちの死さえも、まったく注意を向けられることなく過ぎ去っていくことが、徐々に明らかになる。作品の核をなす前提事項として、自然災害が発生し都市が壊滅的な被害を受けた日に、4人が亡くなったということがある。彼らの死がさして重要ではないというのは、冒頭における田中の謡でほのめかされている。夕暮れに生じたもっと大きな不幸に比べれば、たんなる一つの出来事にすぎないというのだ。
こうしたすべては、上述のことから想像されるのとは反対に、魅力的とも言っていい仕方で展開する。『スタンドバイミー』はブラックコメディーの見事な腕前を披露し、陰鬱なテーマを、不条理なユーモアや、無邪気で親しみがわく楽天家のキャストたちと組み合わせている。自分たちで物事を決めていこうとする彼らの姿勢は魅力的だ。自分が生前、実は金魚であったことを自己発見の旅で知る、女性主人公の一人である藤川は、「神様、もう居ないにせよ、私たちの旅をまだ終わらせないでください」と言うのである。
この旅が最後にたどり着くのは目的地ではなく、むしろ意義ある関係を見出す力であり、兄に対してきちんと別れのあいさつをしようと奮闘するクミを登場人物それぞれが支えるのである。ここで『スタンドバイミー』は、能を媒介として生者と話すことを田中から4人が学んだのと同様に、虚構と現実との境界線をもてあそびはじめる。
演劇のジレンマに対する答えとして演劇の構造そのものを用いるというのは面白い展開であり、伝統的演劇を近代的に再構成していると言ってもよいだろう。衰退しつつある能という芸術形式における自立した演者に助けを求めることによって、疎外された若者たちが新自由主義社会における不安感を癒しているのは、なおいっそう詩的に思える。能が消え去りつつあることは、動きの緩慢さについてずっと文句を言いつつ、田中からその基本を教わらなければならないことからも明らかだ。
主人公たちが生者や自身の伝統とつながりを持つにつれて、現実の世界がますます入り込んでくる。この部屋の一番奥に座る観客は、もしこの場から立ち去ったり一時的に中座したりしたいと望むならば、目の前で展開中のフィクションを横切る必要があるのだと気づき始める。自分自身の役を演じるテンテンコは一種の守護者であり、酸素がない状態において音楽の振動を通じて死者が呼吸するのを助けていることが明らかになる。
テンテンコが介入するたびに、ドラマの暗い静けさがかき乱される。彼女は、どうやら生前は金魚であったらしい男性主人公の皿田に、彼がいま蘇りつつあることを告げる。そして、皿田が息を吹きかえして生者の世界に戻ると、物語はクライマックスを迎えるのだ。皿田は部屋を出て、ロビーを抜け、ギャラリーをも後にして、ギャラリーの警備員と通行人に見守られながら、街頭へとさまよいでていくのである。
展示室の照明がぱっと点灯する。ドラムマシンがスピーカーからドスンドスンとすさまじい音を発する。観客はしばらくの間、正面入り口の向こう側に広がる通りや、車の往来、歩行者に対して静かに視線を集中させる。やがてハッとした観客から拍手がまばらに起きだして、再び外と内との境界が打ち立てられるのである。
<執筆者プロフィール>
マイケル・ラニガン
『Dublin Inquirer』の文化芸術担当記者。ダブリンの視覚芸術と舞台芸術のシーンに焦点を当て、政府の政策がダブリン市の文化と伝統にどのような影響を与えているのかを調査している。現在、ダン・レアリー=ラスダウン市のLexicon Libraryにおけるアーティストへのインタビューシリーズ「Walk and Talk」をホストしている。また、執筆記事は、『Vice』、『The Guardian』、『The Irish Times』、『Tokyo Weekender』、『Metropolis』、『The Business Post』、『Huck』、『Totally Dublin』等の媒体に掲載されている。ダブリンとキルケニーの中間地点に在住。