2021.5.19
magazine
2021.12.3
このレビューは、KYOTO EXPERIMENT 2021 SPRING「批評プロジェクト 2021 SPRING」で選出された執筆者3名に、KYOTO EXPERIMENT 2021 AUTUMNのプログラムより1作品についてのレビューを執筆いただいたものです。
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鉄割アルバトロスケット『鉄都割京です』レビュー
「思想なき笑い・京都死闘編
〜全力で無意味(ナンセンス)であり続けること〜」
文:瀧尻浩士
舞台正面には、真ん中に黒字で「鉄」と書かれた幕がかかっている。幕の隅には、「鉄割さん江 宮永婦人会寄贈」と送り主の名が見られる。裾にはパンダのぬいぐるみなどが無根拠に置かれ、幕外の上手下手はレトロな雑貨や万国旗で飾られている。まるで温泉宿の宴会場、あるいは見世物小屋のような雰囲気だ。
鉄割アルバトロスケットは、1997年東京根津にある「町内会の集会スペースに舞台があるような、不思議な空間」の宮永会館で結成された。古くて新しい、山の手なのに下町、そんな根津で生まれ、地元の婦人会に愛されるこの集団は一体何者なのか。その意味不明な劇団名のごとく、数珠繋ぎに繰り広げられる数十のスケッチパフォーマンス(ショートコメディやコントと言えないこともないが、まさに言い当てる言葉が見つからないので、とりあえずこう呼ぶことにする)も不可解そのものだ。
オープニングは、土着的リズムにのって、天狗、ひょっとこ、キツネの面を被った男たちが次々に現れ踊る。まつりの夜、なにやら怪しげな連中に誘われて、とんでもない世界へ連れて行かれるような幕開きだ。そこからは怒涛のごとく、何の脈絡もないスケッチが続く。韓国なまりの日本語で牧師風の男が語りかける「ハレルヤ」、カレー味のカップ麺をめぐって、マントラとスートラという名の人物たちがエロスとタナトスを語る「めん」、「俺の名メェは熊五郎っ」とソウルな曲に乗って自分を語る「熊五郎」など、3分程の短いスケッチが計26本続いていく。
演劇かお笑いか。狭い舞台は枠取りされた空間を構成し、枠外の上手には寄席で見られるような演題を墨書きした「めくり」台があり、演目の変わり目にタイトルがめくられる。めくり役はエキゾチックな風貌の少年だ。彼はめくり台の横で座り続け、決して舞台へ関わることはない。舞台の役者も少年を彼らの認識の内には置かない。互いに数メートルも離れていない距離にあって、舞台上の役者と少年は明らかに別次元に存在して切り離されている。少年は自分だけの領域である上手の舞台袖の空間から舞台を見つめ、時に小さく笑う。少年が題目をめくると、舞台で次の演目が始まる。まるで紙芝居のように。そう少年は、紙芝居のおじさんなのだ。彼が四角い枠の中の奇妙なオトナたちを見守り、我々観客は口をあんぐりさせながら、その舞台上の世界に取り込まれていくのである。(コロナ前は観ながら食べられるようにと観客にお菓子を配っていたと言う。これもまさに子どもたちがミルクせんべいをかじりながら紙芝居をみる姿に重なる。)めくりの少年が存在することで、舞台世界は虚構化されていく。これは観客と地続きのリアリティを構築しようとする新劇でもなければ、大衆にむけてひたすら日常的「あるある」を提供するお笑いでもない。演劇かお笑いかといったカテゴライズこそ、鉄割にはナンセンスでしかない。
短い時間と狭い空間の中で、雑多な音に彩られた非ドラマ的展開と、非日常的な会話と動作から成り立つ鉄割の世界は、まさに紙芝居の枠の中、見世物小屋の中の虚構である。物語を描くにはあまりにも短く、また人間の本質を描くにはあまりにも馬鹿げた設定に、観る者は不条理という言葉を当てはめるかもしれない。だが、見世物小屋の「へび女」が虚構であると同時に、実在する人間であるように、鉄割のありえない人間たちの世界もまた、見方を変えれば現実世界の人間の何かを想わせる。脚本を担当する戌井昭人は、そんな意図はないと言うかもしれない。実際、人間の本質を描く、社会問題を提議するといった目的を安直に潜ませて創作したとしたなら、これほど理解不能なまでにアナーキーなパンチを舞台上から浴びせることは出来ないだろう。観る者が上演中そこに何かテーマを見出そうとすることは自由だが、それではこの舞台を楽しむ時間を無駄にすることになる。鉄割アルバトロスケットの舞台を観る目的は、日常の論理や法則をもって人間や世界を理解することではなく、ひたすら舞台上から連発される3分仕立てのショックの弾丸を、ボニーとクライドのように全身に浴びる快感に酔うことにあるからだ。
ローラーコースターのような鉄割の舞台は、頭で理解する速度より猛烈に速いスピードで観客に挑みかかる。理解にしがみついて乗り遅れるのか、何だかよくわからないが、乗り物酔いしながらも、おもしろがれるのかによって、鉄割の評価は分かれるだろう。だが鉄割アルバトロスケットは、はじめから評価されるために存在しているわけではない。彼らには審査員の顔色に一喜一憂しながら流行りのお笑いコンテストに勝ち抜こうとするような野望など1ミリも見当たらない。かといって反コマーシャリズムの芸術性を掲げるわけでも、逆に反芸術のイデオロギーを打ち出しているわけでもない。彼らを既成の枠組みの中で認識しようとする人など放っておいて、鉄割はどんどん勝手に推進していく。それはまさにアホウドリ号と名付けられたロケットだ。
鉄割のスケッチは、音と動きに満ちている。民謡、ロック、ソウル、ミュージカルと種種雑多な音楽の使い方は洗練されたものとは言い難いが、短いスケッチの中でその世界観を示すために効果的に用いられている。罵声を浴びせられた瞬間、”エロン! ガッパ!!”とジェームス・ブラウン風にシャウトする「エロガッパ」、台詞がなく中東風の妖しい音楽がすべてを物語る「雰囲気のある酒場」、さらには台詞も音楽も動きもないものもある。「ジョン刑事ニック警部」は二人の警察官が殺人死体を前に声を一切発しないまま終わる。演題を見るだけではわからない。だがそれを声にして読むとわかる。ジョン・ケージとニック・ケイブ (John Cage & Nick Cave)。さすがに演奏者が演奏行為を行わないジョン・ケージの『4分33秒』と同じ無音時間のスケッチではなかったが。「ウェストサイド地区」では明らかに映画を模した動きをするのだが、オリジナルからは程遠く、その踊りとも言えない奇妙な動きこそ、そのスケッチには最も適した動きとなって自然に見えるから余計に可笑しい。
そして舞台は、「馬鹿舞伎」で大団円を迎える。その動きや発声には、歌舞伎、能、狂言っぽいものが混濁している。音楽は三味線に見立てられたテニスラケットやおもちゃの笛で奏でられる。そんなマガイモノで組み立てられたパフォーマンスは、馬鹿馬鹿しくも次第にそれらしく見えてくるのである。古典芸能の本拠地京都で喧嘩を売るような、一見ふざけたこの演目は、同時代における舞台芸能の姿とそれが持つ本来のパワフルさを鉄割流に解釈して、混沌とした舞台上で再提示してみせようとした、彼らの京都という地での熱い闘いの締めくくりにふさわしいエンディングパフォーマンスと言えるだろう。
90分間、不条理な人物と世界に振り回され続けるのに、観た後のこの心地良さは何なんだろう。舞台上の生きとし生けるものが互いの領域を侵すことなく、馬鹿馬鹿しくも懸命に生きている姿の中に、何か無垢なものが垣間見えるからかもしれない。怪しい牧師やシャンソン歌手、謎のアート作家、さらには捜査現場に何気なくいるイグアナ、ナンパする巨大ネズミ、宇宙人家庭教師といった人間以外の生命体さえもが皆、鉄割の世界では当たり前のように共生し、悪意なきコミュニケーションを成立させている。そんな世界ほどアナーキーで心地よいものはない。
どこへ行くかわからない予測不可能な鉄割アルバトロスケットの世界は、KYOTO EXPERIMENTのホームページに現れる、ぐにゃぐにゃとブラウン運動の軌跡を描くロゴデザインそのものだ。だがそのパフォーマンスには、無駄な思想や芸術は持ち込まず、ひたすら馬鹿馬鹿しく無意味(ナンセンス)であり続けようとする、ある種の矜持が感じられる。ぐにゃぐにゃの中に、京都に迎えられた客人としての鉄割流仁義の筋が一本しっかり通った舞台であった。
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瀧尻浩士 (たきじり ひろし)
明治大学文学部卒業、オハイオ大学大学院修士課程(国際学)修了。商社勤務を経て、大阪大学大学院博士前期課程(演劇学)修了、現在同大学院博士後期課程に在籍。国際演劇評論家協会(AICT)日本センター会員。日本演劇学会会員。