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演劇・美術
magazine
2021.10.11
10月16日~17日に京都芸術センター 講堂で上演される『擬娩』。
今回、京都で活動する演出家の和田ながらが2019年に初演した本作を、デジタルメディアを基盤に、人間の身体性を問う創作を続けてきたメディアアーティストのやんツーをコラボレーターに迎え、リクリエーションを行う。
「妻の出産の前後に、夫が出産に伴う行為の模倣をする」という実在する風習をヒントに演劇として立ち上げた『擬娩』をつくったきっかけやリクリエーションに向けての思いなどを和田ながらとやんツーに聞いた。
― 和田さんが『擬娩』をつくることになったきっかけを教えてください。
和田:20代の頃は、自分の人生における妊娠や出産について、態度を決めきれないまま先送りにしていたんですね。アーティストとしてのキャリアに自信を持てるようになる前に子どもがうまれたら創作活動は続けられないだろう、と思い込んでいたので、考えるのを怖がっていたのかもしれません。
そうやって保留にしつづけているうちに気がついたら30代になっていて、時間的猶予がなくなっていました。子ども=創作活動の断念、という思い込みからはさすがに脱却できてはいるものの、キャリアとの葛藤が解決しているわけではなく、でも、長い間扱いかねていたことをいまさらどうやって考えたらいいのやら、わからなくなってしまって…。そこで、妊娠・出産を演劇にしてみよう! と思い至りました。私にとって演劇はものを考えるツールです。だから、演劇としてなら、妊娠・出産について考えられるんじゃないかって。これまで既存のテキストや出演者の日常生活に取材した作品が多かった私にとって、自分自身のプライベートな状況を作品のモチーフにするのは初めての試みでした。
では、どんなふうに演劇をつくるか。私は妊娠・出産をしたことがないので、経験者としてなにかを語れるわけではない。では、男性とも、妊娠・出産の未経験者という同じ立場にいる者として一緒に取り組めるんじゃないか、いやむしろそのほうがいい、と思ったんですね。私自身も妊娠・出産を女性の領分としてだけとらえていたのですが、その限定をなんとか開いていきたいと思いました。そういったプロセスを経て、男性も含めた妊娠・出産の未経験者たちで妊娠・出産を演じてみる、というコンセプトが定まっていきました。
したため『擬娩』(2019) 演出:和田ながら 美術:林葵衣 Photo by Yuki Moriya
― 「擬娩」という風習について、それぞれどんな印象を持ちましたか?
和田:モチーフが先に決まったので、そのあとにタイトルを決める必要がありました。最初は「想像妊娠」とつけていたのですが、文字通りではあるものの、なんだかしっくりこなくて。とにかく調べていこうと「想像妊娠」から「男のつわり」とググっていった先に、「擬娩」を見つけました。どうやら妻が出産する時にその夫が痛がったりする習俗らしい。出産の非当事者が痛みをヴァーチャルに体験しようとじたばたしている滑稽な姿を思い浮かべて、ものすごく納得感があった。とんでもなく演劇的だし、私がやろうとしていることとそっくりだ! と驚いたんです。
古くからこういった習俗が人間に必要とされてきたことと、現代の自分とがつながる感覚がありました。「擬娩」は廃れた習俗ではあるけれど、今の私たちにも必要な行為なのではないか。また、世の中のあらゆる場所で、経験者と未/非経験者のあいだにはさまざまな分断があります。その分断の苦しさに対処するヒントが「擬娩」という行為の中に見つかるんじゃないかと感じました。
やんツー:僕も最初は共同ディレクターの塚原さんから電話が来て、「ん?ギ、ギベン?」みたいな。全然知らない言葉だったんで、どういうことですかって聞きました。
和田:どういう字かもわからないですしね。
やんツー:最初はピンときてなかった。後日、和田さんから『擬娩の習俗』という貴重な本をみせてもらい、すごくびっくりしたんです。テクノロジーがない時代に、アフリカなんかでもいくつかの民族で試みられてたというぐらい、全人類規模でやってた感じですよね。すごい壮大だなと。どういう経路で伝わったのかは詳しく分からないですけど。同時多発的に行われていて、伝わってきたんですかね?
和田:ほとんど失われてしまった古い習俗なので、起源や分布の理由の正確なところはあまりわかっていないようですね。
やんツー:作品のタイトルを決めるタイミングでたまたま見つけた言葉とはいえ、すごい運命的な出会いですよね。しかし「擬娩」という風習がなくなってしまった現代ってなんだろうって考えてしまいます。昔は他者の痛みとかを想像することで、人間関係がうまくいくっていうことを本能的にやっていたってことですよね。すごいなと思って。むしろ今、人類は想像する力が退化してるなって気がしています。
僕も最近よくあるんですが、人間関係がうまくいかないときって、相手側の気持ちを想像する力が足りてなかったりします。今日たまたまTwitterを見ていたら、想像力が人間にとっては大事だって、政治家が言ってるのを見たんですが、今の政権はどちらかというとむしろ意図的に思考を停止させるような政策をうっているように僕は感じる。だからそういうことに抗うように、「擬娩」っていう風習が失われた現代にそれを演劇としてロールプレイすることはとても重要な行いだと思います。自分は「擬娩」を豊かに想像できる手助けになるような、大道具や小道具、あるいは演者をもう一個つくるのかわかんないですけど、そういう軸でつくることを考えています。でも決してぱっと見て、わかりやすいってことではないとは思っていて。例えば、人間じゃない車や装置があったとして、人間じゃない物が人間みたいな振る舞いをすることで、人間そのものを想像できるような舞台美術をつくろうかと考えています。
妊娠・出産とテクノロジーについて
― 妊娠・出産とテクノロジーについて考えていることはありますか。
やんツー:出産って超人的なことですよね (笑)
和田:自己複製して身体の内部にちっちゃい人間ができる。
やんツー:非日常的なことですよね。そして、全員が体験できるわけではない。
和田:妊娠の仕組みには未だにわかっていないことが多いというのも驚きですよね。謎が多い一方で、現代の妊娠・出産にはテクノロジーが深く関わっている。子宮の中の胎児の存在を確認できるエコー (超音波検査) も、3Dで立体に見えたり4Dで動画として観察できたり。あるいは不妊治療、代理母出産。これからもすごい速度でテクノロジーは進んでいくので、一昔前の夢物語があっという間に現実になっていく。だから、妊娠・出産について現在抱いているイメージも倫理観もどんどん変わっていかざるをえないと思うのですが、その変化への準備も必要な気がして。何を準備したらいいのかは、わからないんですけど。
やんツー:心の準備ですかね。
和田:今のままじゃなくなっちゃうけど、これからどうする? って。
やんツー:多様な妊娠・出産の形態を受け入れる心の準備かな?
和田:そうそう。
やんツー:無痛分娩ですらね、ダメだって言う人がいますしね。
和田:妊娠・出産って、個々人の価値観や思想があらわになる場面だと思います。
― リクリエーションをするにあたって、初演時から変化しそうだと感じているところはありますか?
やんツー:『擬娩』は台本がきっちりとあるわけじゃないんですよね。初演にはなかったエピソードがどんどん入ってくる可能性はありますか?例えば、今日の稽古で聞いた、4Dの話って初演の中に出てきていないですよね?
和田:出てきていないですね。
やんツー:エコーの3D画像をリアルタイムに動画として4Dで見るのって今ではかなり一般的なので、4Dをイメージとして持ち込んでみたいと思っています。4Dって超音波をあてて、お腹から胎児までの距離を測って、三次元データをつくるので、仕組みとしては3Dスキャンと同じですよね。
和田:デコボコをデータ化してる。
やんツー:僕にとっては割と身近なテクノロジーです。
和田:もしかして、胎児を3Dプリンタでつくれるってことですか?
やんツー:そうですね、胎児の3Dプリントは、やろうと思えばできます。そこも倫理的に、人によっては生まれる前の胎児を見ていいのかと考える人もいますよね。性別すら生まれてから知る方がいいと考える人もいるし。
あとは、出産にまつわる技術の話だと、帝王切開は昔からありますもんね。
和田:ただ、帝王切開は死亡率が高い時代が長かったようですね。今は医療が発達して死亡率はかなり下がりましたが、かつては女性も子どもも出産によってたくさん亡くなっていました。あるいは、女性が一生のうちに出産する回数も、8回や9回が特殊でなかった時代もある。世界観がまったく違うわけで。妊娠・出産の歴史を調べていると、自分がイメージしている妊娠・出産というのは、2021年の30代の日本人という属性によって導き出されているものなのだとあらためて感じます。今の私に見えているものは、普遍的なものではなく、ある時代に特有の風景なんですよね。
やんツー:テクノロジーの進歩は指数関数的に向上するので、テクノロジーが関係することで妊娠・出産というものが全然違う見え方になるのは一瞬だと思います。
でもそれって想像するとすごく怖くないですか? 指数関数的な変化ということは、ある時点でとんでもない飛躍と感じるようことが起こる気がします。
和田:果たしてテクノロジーの進歩がどこまで行ってしまうのか、怖いようでもあり、一方で、怖いもの見たさもあり…
やんツー:倫理観の壁を突破するだけなんですよね。『マッドマックス』みたいな世界がこないといいですけどね。加速主義の成れの果てみたいな感じですけど。
和田:加速しすぎて荒野になっちゃう (笑)
やんツー:そうそう (笑)
リクリエーションする『擬娩』についてのそれぞれの思いや期待
― やんツーさんは舞台作品へ初参加となりますが、意気込みを聞かせてください。
やんツー:空間を使って物を動かすようなインスタレーションをつくることが多いんですけど、ミニマリズムから発展したインスタレーションは、そのオブジェクトが並んだ空間が舞台装置的であり、鑑賞者はその舞台に引き込まれてしまうという構造から、演劇性があると論じられたりします。僕はインスタレーションというフォーマットにそこまで自覚的でなく、メディアアートって必然的にそういう空間的な作品が多くて、あまりフォーマットは気にせず作品をつくってきたんですけど、自分の作品はさらに物が動くので、鑑賞者だけでなく、作品自体が演者みたいな働きをしているなと。という感じで考えれば考えるほど自作が演劇的だなと思うようになりました。また、ハイナー・ゲッベルスという演出家は光や音、オブジェクトだけで構成された人間が登場しない機械仕掛けのインスタレーションのような演劇作品を手掛けていて、それを知った時、自分の興味や感心にとても近い作品で驚いたのを覚えてます。そういったことを以前から知ったり考えたりしていたので、舞台美術という仕事にはとても興味がありました。
あと特にここ最近、ロバート・ラウシェンバーグというアーティストが気になって調べていて、彼はE.A.T. (Experiments in Art & Technology) という、グループを始めた人で、すごく明確に新しいメディアとしてデジタルテクノロジーを使って作品をつくることを試みた最初のアーティストです。メディアアートの起源を辿ると、E.A.T.以前のフルクサスだという人もいると思うんですけど、僕はE.A.T.からはじまったと思っています。ラウシェンバーグって、本当にいろんなことをやっているアメリカを代表するアーティストで、ウィレム・デ・クーニングというアーティストのドローイングを消しゴムで消したという有名な作品があるんですけど、その作品をつくったとき、彼はデ・クーニングのアシスタントをやっていました。彼はデ・クーニングと仲良くなって、「ちょっと消したいから貸して」と頼んでデ・クーニングも自分の絵を貸し、彼はそれを全部消して、それが額装されてるという作品で、めちゃくちゃ面白いですよね。
和田:かっこいい!
やんツー:あとラウシェンバーグといえば、雑誌の切り抜きのコピーだったり、手紙だったり、時には立体的なオブジェまでキャンバスの平面上に寄せ集めたコンバイン・ペインティングという手法が有名です。そんな具合で、非常に多様なメディウムを駆使しながら、時にはすごく突拍子もないことをしでかしてきた彼ですが、自身が出演するパフォーマンス作品もつくっていて、画集を見るとパラシュートみたいなものを背負って飛ぼうとしていたり、平面作品の中でも空を飛ぶ鳥のイメージが多く出てきたり。
和田:舞台で飛ぼうとしていたってことですか?
やんツー:英語のテキストを読んでいなくてイメージでしか追えてないんですけど、舞台上でロープにぶら下がっていたりと、飛ぶことへの憧憬があったんじゃないかと思います。とにかく表現のフォーマットや固定概念みたいなものに全然縛られずに自由に発想して表現していた。そんな彼のような創作態度に最近かなり感化されているので、自分もそういうふうに「演劇」というフォームに囚われすぎずに自由に発想して制作していきたいと思っています!
あと意識したいこととしては、これまで、機械学習という人工知能を構築するための技術やブロックチェーンを基幹システムとする仮想通貨だったり、最新のテクノロジーを割と自覚的に作品制作の手段として取り入れたりモチーフとして扱ってきました。でも、コロナ以降、経済活動にブレーキがかり、僕自身のテクノロジーに対する向き合い方にもブレーキがかかりました。それまで不可視だったものが可視化されるキッカケとなったのが現在のコロナ禍だと思います。自分自身、半ば強制的にそういう状況に身を置くことになって、色々考え直すきっかけになりました。加速的に進歩していく現在の最新のテクノロジーを使うことで、表現そのものを更新できる、それこそが表現する者として一番正しい態度なのだと思いこんでいましたが、表現の価値ってそういう一つの軸だけではないということに改めて気付かされたというか。例えば他者を思いやる想像力みたいなことに対しては相当無自覚だったんですが、その状態の自分に意識を向け始めた頃、『擬娩』に出会いました。この作品に参加することは今の自分にとってとても重要なことだと思っています。なのですごく頑張りたい。いや、頑張るということも疑わしいんですけど (笑) 今となっては頑張らなくていいという考えも大事なんだというモードになってます。頑張ると加速しちゃうから。
和田:そうですね、ゆっくり粘るっていう。
やんツー:そうですね、じっとりと、こう、ね。
やんツー「鑑賞から逃れる」(2019年) 素材:ミクストメディア サイズ:可変 撮影:木暮伸也
― やんツーさんとのコラボや公募で募った10代の出演者を迎えて作品をつくることについて和田さんはどのような期待を持っておられますか?
和田:前回の稽古でやんツーさんの今までの作品を紹介していただいたんですが、今までやんツーさんが演劇と関わってなかったというのが意味不明なくらい、やんツーさんの作品から「演劇」をびりびり感じました。だって、モノが人間的に見えるような振る舞いをして、鑑賞者がモノを人間的な存在として捉えはじめるとか、演劇そのものじゃないですか。演劇に直接関わらないまま、しかし演劇の芯をとらえるような発想を持っているやんツーさんとご一緒できるのは、とっても楽しみです。そして、さきほどやんツーさんがおっしゃっていた加速主義的な世界への違和感やテクノロジーとの付き合い方についても、同時代の人間としてとても共感できますし、このコラボレーションによってそういったテクノロジーへの視点を『擬娩』に引き込めるような予感もあります。
そもそも、舞台芸術とは異なる専門分野の人とご一緒するということ自体が既にすごく刺激的ですよね。違いもあれば共感しあえることもある。同じように、10代の出演者と一緒に時間を過ごしていることも、私にとってはとても刺激的です。彼らが見えていることや感じていることと、私が見たり感じていることは、個人としても世代としても違う。一方で、素朴に共感できることもある。それをシェアすることの面白さを感じています。
同じ場にいろんな属性の人がいると、想像力も活性化されますよね。たとえば、演劇では常識的なことを、やんツーさんはどう感じるか、とか。空間と時間を共有する醍醐味って、意識的にも無意識的にもそういった刺激をたくさん受けるってことなんだと思います。この醍醐味を大事にしてこれからのクリエーションを楽しみたいと思います。
― 本日はありがとうございました。
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公演情報
和田ながら×やんツー『擬娩』
10.16 (土) 13:00 / 17:00 ★
10.17 (日) 13:00 ♡ / 17:00
★ポスト・パフォーマンス・トーク
♡託児サービスあり
上演時間☞90分(予定)
開場は開演の30分前
言語:日本語 (英語資料配布あり)
会場:京都芸術センター