magazine
【劇評】瀧尻浩士「日常空間の裂け目から聞こえる劇の声 ―父の歌から、母の歌あるいは自分たちの歌へ―」
2021.5.19
この批評文は、2021年3月24日から28日までオンライン配信が行われた演劇作品ウィチャヤ・アータマート/For What Theatre 『父の歌 (5月の3日間)』について執筆されたものです。批評プロジェクト 2021 SPRINGでの審査を経て、ウェブマガジンへの掲載批評文のひとつとして選出されました。選出批評文についてはこちらをご覧ください。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
芝居には「声」がある。それは発話される台詞に限らない。無言の劇にも「声」がある。だが劇のほうからいつも明確な声が発せられるとは限らない。それが不明瞭なとき、観客は困惑する。ましてや異なる言語と文化を持つ観客、たとえば、我々日本人の観客は、タイ現代演劇としてのこの作品の「声」をどのように聴けばよいのだろう。決して明瞭とは言えない、しかしどこか耳に残る、このウィチャヤ・アータマートの作品の声に、引用される歌を手がかりとして、耳を傾けてみたい。
舞台はタイ・バンコクの狭い台所がある小さな部屋。姉弟は毎年5月のある一日を父の命日として、亡父が住んでいたこの部屋に集まっているようだ。殺風景なその部屋の中央には、窓と、天井からぶら下がった「月」のように丸い電球、そして小さなテーブルと3脚の椅子。テーブルを挟んで姉は不安定なスツール椅子に座り、弟は椅子に見立てた粗末な丸太に座っている。対面する姉弟の間には、亡き父が座っていただろう、背もたれのついた立派な椅子がそのまま置かれている。誰も座っていないその「空っぽの椅子」は、いまだ姉弟の間にしっかりと存在している。それは父不在の空虚さというよりもむしろ、姿が見えない分、より彼らの内側にその存在がへばりついているようにさえ感じられる。と同時に、舞台の真正面に据えられたこの空席は、観客にむけて開かれた劇空間の裂け目ともなり、我々観客はそこから、この姉弟たちの心の深淵をのぞきこむ。まるで誰も腰掛けていない椅子に座って娘、息子の姿を見守る亡き父のようなポジションと重なり合って。
冒頭、姉はテーブルを挟んで向かいに座る弟をみている。弟は体をかがめ、スマホをいじり続ける。二人は向かい合うことも、目をみることもなく、噛み合わない会話をポツリポツリと交わす。やがて、ご飯の炊き方について、姉は亡き父は硬い米が好きだったと言い、弟は柔らかいのが好きだったと、食い違いの口論が始まる。台所で言い合う姉弟のシルエットの間には、燈明の光にぼんやり照らし出された遺影の父の姿が浮かび上がっている。姉弟の間にはそれぞれの食い違ったイメージの父が、亡くなった今も大きな存在としてあり続けているのだ。
離れた墓に眠る父を家に連れて帰れば、次の命日には家族全員が揃うと弟は提案する。父の遺体を掘り起こし火葬するために、彼らのような若い世代でも、バチがあたらないようにと、中華系の宗教ルールを重んじてスマホでその方法を確認しようとする。弟は検索しながら“Yue Liang Dai Biao Wo De Xin(月亮代表我的心)“を鼻歌で歌う。姉にとっては父が窓辺に立って歌っていた思い出の曲であり、弟にとっては、彼の演技者としてのあこがれであるレスリー・チャンの曲である。弟はレスリー・チャンを「父」と呼ぶ。姉弟の間では、実の「父」の思い出も異なれば、さらには呼び名としての「父」たる存在にも食い違いがあるのだ。「父」についての奇妙なズレは観るものに笑いを引き起こすが、同時にその「父」という存在が、さらなる別の広がりを感じさせていく。
劇中、レスリー・チャンは、文化的アイドルとしての「父」として言及される。彼は、1980-90年代に活躍し、姉弟の父世代にとっては「哥哥=兄」的存在であり、弟からすれば父親的スターだ。弟にはそのレスリー・チャンが実父とどこか重なるのかもしれない(遺影の写真は、サングラスから目をのぞかせて、まるで映画『男たちの挽歌』を思わせる)。だが姉にとっては、窓辺に立って月をみて歌う詩的な姿が「父」なのだ。父を語り、月について話す二人の会話の上に、“Yue Liang Dai Biao Wo De Xin“ が流れ、月とレスリー・チャンの歌う姿が壁に投映される。昔、父が窓の桟に刻んだ言葉を、姉は弟に読んで聞かせる。
月が満ちていく時は 昼間に昇って 夜には落ちる
月が欠けていく時は 夜に昇って 昼間に落ちる
月が満ちていく時は 月の東側が見える
欠けていく時は 次の西側が見える
弟 「5月17日は欠けていく?満ちていく?」
姉 「月を見ればわかるでしょ」
弟 「方角がわかれば 月が見えて そうすればどっちだかわかる
欠けるのか満ちるのかわかれば 方角がわかる みたいな?」
姉 「関係ない 月さえ見えれば 森では迷わない」
(福冨渉訳の字幕による)
タイの歴史的背景に通じていなければ、この場面は、おそらく政治的なものからは遠い、亡き父の面影を月に見て、自分自身を内省するかのような姉弟の叙情的なシーンと見ることができるだろう。だが副題の『5月の3日間』が、タイの現代史における軍事クーデターとデモ隊との悲痛な出来事を指していることを知り、弟がここで「5月17日」の天上の「月」について口にしたとき、音楽にのせてそれまでの父と月に与えられたアジア的情緒の文脈が急激に政治性を帯びてくる。但し劇中の台詞には政治的なアジテーションは一切みられない。だがこの姉弟の背景に、政治的、経済的不安定さを抱えた今のタイ社会が陽炎のようにぼんやりと揺れ動いていることを感じとることはできるだろう。「父」や「月」という語に、混乱する国政のなか国を導く父としての国王が重なるかもしれないし、また別の政治的シンボルを当てはめれば違った意味をなすかもしれない。だが劇そのものに、その答えはない。中華系文化の
歌がフルコーラスで流れる間、他にダイアナ妃、ボブ・マーリー、ジョン・レノン、マリリン・モンロー、ジャニス・ジョプリン、ジミー・ヘンドリックス、テレサ・テンなど、世界のスーパースターの姿が投影される。Die Young, Forever Young. 彼らは皆若くして命を終え、その姿は永遠に若いまま人々の心に刻まれている者ばかりである。姉は「死んだふりした有名人だけが住んでる島がある」と冗談を言うのだが、あながち人は心のどこかでそう思いたい願望があるのかもしれない。彼らスターの名を口にするとき、その死は単なる生の終わりを意味していない。彼らの死には、政治的なもの、あるいは社会のムーブメントがからみついていることを知っているからだ。理不尽さの中で、突然命を終えた若きスターたち。タイの観客であれば、そこにタイの歴史的3日間で命を落としたタイ市民の若者たちの姿が重なるかもしれない。いやタイだけではない、投映されたスターたちが国を超えて語られるように、タイ以外の国の観客であっても相通じる思いを感じることだろう。2021年においても、香港やミャンマーでの抗議デモにおいて逮捕され、命を失った若者の姿は、まさに世界にとっての問題として報道されている。”Yue Liang Dai Biao Wo De Xin“の切ないメロディーは、名もなきヒーローたちへの鎮魂歌のように聴こえてくる。こうした出来事は、同じアジアの一国としての日本にとっても決して切り離された他人事とは言い切れないだろう。
劇中、他にいくつかの歌が引用される。冒頭のピアノ曲は、渥美二郎の『夢追い酒』。『夜来香』は、日本でも李香蘭 (山口淑子) が歌ったことで親しまれた曲である。更には谷村新司の『昴』が、テレサ・テンによって日本語で歌われたヴァージョンが使われている。弟が『昴』の原曲は日本語だといっても、姉は中国の歌だと言いはる。彼女にとっては、「テレサ・テンがオリジナルだ 彼女はあらゆるもののオリジナル」であり、曲は「父さんが聞いて歌ってたんだから中国語」なのだ。姉は中華系ルーツであることは、父へのつながりであり、それを大事にしようとしている。一方、弟は『昴』が日本の歌で、中国語でも、タイ語でも歌われていることを知っている。だがどれが正統なものかであるかには関心はない。シンガポールの大学院で政治的演劇活動をしている彼には、インターカルチュラルな視点があるのかもしれない。だからといって、姉は超保守的でも、弟が超リベラルといったようにも見えない。そうしたゆるさが、ある種のリアリティと共感を生んでいる。
このように父が歌っていた歌は、その起源が切り離されて、中華系のヒットソングとして、家族の中で機能してきたことを示している。多くの曲がテレサ・テンによって、中国語にカバーされてヒットした時点で、歌はその起源を離れ、日本から台湾、中国、タイへとつながるアジアの歌に転生していった。またその逆もある。前述の ”Yue Liang Dai Biao Wo De Xin” は、夏川りみにカバーされ、『永遠の月』という日本語タイトルが付されている。この劇で引用される歌は、政治的な解釈も、文化的な解釈も許容する。これらの歌はアジアの国境を超えて、歌固有の意味を超えて、各国のコンテクストの中で意味づけされ、受容されてきたのだ。
ただこれらの曲と唯一、趣を異にする選曲がなされているものがある。終幕近く、姉弟が記憶の引き出しから取り出しながら口ずさむ曲が、日本のアニメ『一休さん』のエンディングテーマ『ははうえさま』だ。親日の仏教国タイにおいて、このアニメは格別の人気で、子どもは皆歌えるのだときく。姉弟もポツリポツリと怪しげな日本語で思い出しながら歌う。でもなぜ有名なオープニング曲でなく、エンディング曲なのか。
ははうえさま お元気ですか
ゆうべ杉のこずえで
あかるくひかる星ひとつみつけました
星はみつめます ははうえのようにとても優しく
わたしは星にはなします
くじけませんよ 男の子です
さびしくなったら はなしにきますね いつかたぶん
それではまた おたよりします
ははうえさま いっきゅう
(1975 歌 / 藤田淑子 作詞 / 山元護久 作編曲 / 宇野誠一郎)
厳しい寺の修行の毎日に、夜になると離れて暮らす母が恋しくなる。夜空に向けて、手紙の形を借りて、母に話しかける一休さんの思いがあふれる抒情的な曲だ。アニメのエンディング画面では「てるてる坊主」が大写しされる。舞台の右上の窓枠にひっそりかけられている「てるてる坊主」がこの場面で符合する。だが劇中、母という存在は一度も語られない。
「母なる大地 父なる空」という例えがあるが、父の歌は「父なる空」として、月、国家、国王、
では劇中語られない、「母」の存在とは何か。「ははうえさまー」と『一休さん』の歌の歌詞の一部を、たどたどしい日本語で口ずさむ姉弟。二人は「母」を恋しく思う自分たちの気持ちを歌詞にのせて歌っているわけではない。日本人である我々には歌詞の一言一句を理解し、「母恋歌」としてしみじみこの歌を聴いていた記憶を重ねて、この場面を見るのだが、おそらくこの姉弟にとっては、アニメ全体、歌の文脈から、母についての歌であることは知っていても、「ははうえさま」と語りかけるこの単語が、「母」そのものを示す単語であることは知らないだろう。ただ二人は、それまでの父の時代の歌ではなく、「自分たちの世代の歌」として、この歌を歌っているのである。姉弟にとって、この楽曲は「母の歌」そのものというよりも、むしろ「自分たちの歌」であり、アニメ番組やこの歌全体に通底する「母のイメージ」がそこに貼り付いているといったほうがいいかもしれない。「自分たちの歌」を下支えるイメージの母は、頭上の父のように流動的ではなく、地に足ついた「大地」たる存在である。「母なる大地」、それは父=国家の枠組みから解放されて、歌が国境を乗り越えたように、国の外へと拡がる広大な地続きの大地=アジアだと考えられないか。「母」は権威でも偶像でもなく、あるがままの「生」を受け止めてくれる安定した基盤。それが今のアジアが求める希望なのかもしれない。姉弟が口ずさむこの曲『ははうえさま』は、二人にとって直接的な「マザー」でも「母上様」の歌でもない。彼ら姉弟=タイの若者が、部屋の窓から母なる大陸に向けて歌う「は・は・う・え・さ・ま」という音節が生み出す記憶のイメージに支えられた「自分たちの歌」なのだ。
終幕、月が沈み、暗い部屋に窓から朝日が差し込んでくる。そして姉弟は、それまで劇中、準備だけで終わっていた、食べるという「生」の行為を、きちんと向かい合って行う。ささやかな希望の匂いが狭い部屋に立ち込めてくるのを感じた。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
瀧尻浩士 (たきじり ひろし)
明治大学文学部卒業、オハイオ大学大学院修士課程 (国際学) 修了。商社勤務を経て、大阪大学大学院博士前期課程 (演劇学) 修了、現在同大学院博士後期課程に在籍。