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小原真史インタビュー

2021.2.22

「一日で世界一周」(パリ国際植民地博覧会)1931年、個人蔵

2/28(日)まで開催の小原真史「イッツ・ア・スモールワールド:帝国の祭典と人間の展示」。今回の展示について、実際に展示する資料を見ながら小原真史さんにお話いただきました。
(2020年10月、京都・岡崎地域|大典記念京都博覧会の時の電燈台座付近)

☞ 開催情報
小原真史「イッツ・ア・スモールワールド:帝国の祭典と人間の展示」
2.6 (土) – 2.28 (日) 9:00–17:00 (入館は16:30まで)
会場: 京都伝統産業ミュージアム 企画展示室
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——今回の展示のテーマ、内容について教えてください。

小原: 2025年の大阪万博と東京オリンピックのことが念頭にあり、それに関連する展覧会を考えていました。両方とも19世紀から続く近代の国家イベントで、万博には植民地主義的な思考も反映されていました。それで今回の展覧会は、帝国の祝祭空間としての博覧会とそこで行われた「人間の展示」をテーマにしています。

この岡崎地区には今では色々な文化施設が立ち並んでいますが、1895年の第四回内国勧業博覧会の招致を契機に整備された場所です。内国勧業博覧会は、殖産興業のために国内産業の普及や技術の向上を目的に開催されました。最初は上野公園で、その後京都の岡崎公園、大阪の天王寺公園で開催され、これらの場所では内国勧業博以外の博覧会も繰り返し行われました。つまり、博覧会が作った空間ということです。


大典記念京都博覧会 電燈台座

——ここにある記念碑みたいなものも博覧会の時のものみたいですね。

小原: これは1915年の大典記念京都博覧会の時の電燈の台座のようですね。電気というと何かを照らし、見せるためのものですが、19世紀後半から20世紀初頭は、電灯というものは珍しいものでした。だから博覧会でも電気それ自体がスペクタクルな見世物になっていたのです。大阪万博の会場を照らした光も関電の原発から引いてきた電気によるものでしたよね。第五回内国勧業博覧会の時に、日本で初めて本格的な夜間イルミネーションが博覧会で行われ、新しいテクノロジーを国民に見せたわけです。


「学術人類館」(第五回内国勧業博覧会)1903年、個人蔵

小原: 今回の展覧会の目玉になるのが、その第五回内国勧業博覧会関連の写真です。「学術人類館」の写真ですが、そこで初めて日本の博覧会で人間が展示されました。よく知られている有名な集合写真以外に新たに別の写真を三枚発見したので、それらを展示の目玉として日本初公開します。北海道や沖縄のような明治になって日本併合された「外地」や台湾のような植民地、東アジアやインド、トルコ、アフリカなどの人々が展示されました。

第四回内国勧業博覧会は京都の岡崎地区で行われたのですが、日清戦争で自粛ムードになっただけでなく、戦地から帰ってきた兵士がコレラ菌を持ち込んでその後蔓延したこともあり、来場者が少なかった。その次の第五回内国勧業博は、京都の失敗を糧に遊園地的な要素を盛り込んで多くの来場者を集めました。そして民間業者が行った場外余興の一つがこの「学術人類館」でした。当時パリ万博やシカゴ万博でも植民地だけでなくアジア、アフリカからエキゾチックな人たちを連れてきて展示するという試みは大規模にやっていたので、将来的な万博開催を視野に入れて欧米の例を踏襲したわけです。

——当時は人気だったのでしょうか?

小原: はい、今で言うメリーゴーラウンドとかウォーター・シュートというジェットコースター的な乗り物もありました。万博が事物による教育や産業技術のショーケースというだけでなく、エンターテインメント性を重視して来場者を集める方向に大きく舵をきるのが、19世紀から20世紀への変わり目です。第五回内国勧業博覧会も、学術・教育という名目だけでなく、エンターテインメントの一環としてエキゾチックな人々を呼んだわけです。19世紀のパリ万博とシカゴ万博がそういう流れを作り、それを真似したのが第五回内国勧業博。したがって、第五回内国勧業博は、「内国」という呼称がついていますが、国際的な色合いが強く、日本における万博の起源のようなものだと言えます。


「予防接種活動」(アンジェ博覧会)1906年、個人蔵

小原: 人や物の大規模な移動を可能にしたのは蒸気船や鉄道網の発達、あるいは航路の開発なのですが、それだけでなく世界に広がっていた欧米の植民地が前提となっています。ただそうやって人が動くと今回の新型コロナウイルスの場合もそうですが、感染も世界中に広がっていきます。例えば、アフリカの国々の住民をアメリカの博覧会に連れてきた時に、長距離移動ということだけでなく、環境や気候が全く違うところに長期間居住することになるわけですよね。本来居住に適さない場所で一日中異国の来場者から見られながら生活しなければいけないわけで、疲労もするでしょうし、病気になったりする。博覧会場にウイルスを持ち込むこともあれば、移動先の国でそれまで触れることのなかったウイルスと接することにもなります。
この絵葉書は、フランスの地方博覧会につくられた「黒人村」でワクチンを打っているところです。こうした「エスニック・ヴィレッジ」では、今で言うソーシャル・ディスタンスのための囲いを作って、来場者との距離を確保することもありました。こうした博覧会が用意した人々の接触の中にはネガティヴなものだけではなく、豊かな出会いもあり、「見る/見られる」という相互的なコミュニケーションがありました。


「ヴィサヤ族、フィリピン村」(セントルイス万国博覧会) 1904年、個人蔵

——同じ写真が並んでいるこのカードはなんですか?

小原: ステレオ写真といって、専用の器具で見ると半立体に見えるというものです。今で言えば3Dテレビみたいな存在で、現地に行かずとも旅行気分を味わえるという代物です。博覧会会場自体が、ある種の旅をする空間になっていて、さらにそれをまた撮影して自宅にいながらも異国の風景を楽しんだわけです。アームチェアー・トラベラー用の娯楽ですね。見物客が写っていなければ、あたかもフィリピンで撮ったように見えますし、博覧会のキャプションがなければ、現地で撮ったもの見えるものもたくさんあります。つまり、「エスニック・ヴィレッジ」というのは、写真や映画のような複製技術のやっていることと同じことを現実のモノと人でやっているわけです。
第五回内国勧業博覧会の翌年に開催されたセントルイス万博でもアメリカの植民地になって間もないフィリピンの村が大規模に作られました。そこではイゴロット族が犬を屠殺して食べる様子を見せるというイベントが頻繁に行われていました。奇異な習慣を持つ「野蛮人」としてのフィリピン原住民が強調され、展示にはアメリカの人類学者たちも関わっていました。


「フィリピン人スカウトのパレード、セントルイスの広場」(セントルイス万博)1904年、個人蔵

小原: 半裸で「野蛮」なフィリピン原住民というイメージとは対照的に、綺麗にアイロンのかかった制服を着たフィリピン人の兵士や警官らが美しく整備された場内を警備したり、パレードしました。これはアメリカ式の訓練を受ければ、「野蛮人」もこんな立派な兵士になるという言外のメッセージですよね。新しい植民地を獲得してそれを統治するにふさわしい文明国アメリカを国際的なイベントで誇示するという「帝国の祭典」としての側面が万博にはありました。植民地支配を正当化するための「文明化の使命」という言葉は、アメリカやフランスのような共和国でも盛んに用いられました。


「正門、カール・ハーゲンベック動物園、シュテリンゲン、ハンブルグ」1908年、個人蔵

小原: 岡崎地区や天王寺、上野にも動物園が今でもありますが、博覧会で動物ショーが開催されたり、エキゾチックな動物が展示されることが多くありました。その中に人間と動物が近接して展示されることや動物と同じスペースに人間が展示されることもありました。
これは1907年、にハンブルク近郊にオープンしたハーゲンベック動物園の絵葉書です。門のところに動物の像と人間の像が一緒に設置されています。つまり動物と人間が同じ地平で収集、展示され、来園者から見られていたということです。長らくアフリカの黒人と動物とが近い存在ということを科学的に検証しようという試みもありました。現在の常識ではありえない考えですが、学者にも広く信じられていたのです。ひどい例では、動物園のサル舎の中で展示され、サルのような動作をさせられた青年もいました。


「女のブッシュマンの人体模型、『ホッテントット・ヴィーナス』」年代不詳、個人蔵

小原: この絵葉書に写っているのは、「ホッテントット・ヴィーナス」と呼ばれたコイ族の女性の模型で、今の南アフリカから甘言にのせられてイギリスに連れて行かれました。大きなお尻と性器が注目されて、セックスシンボルになり、イギリスとフランスで見世物になりましたが、病気になって死亡した後は、フランスで解剖され、石膏で型をとられて博物館に収蔵されてしまいました。彼女もやはり学者によって動物に近い存在とされ、非人間的な扱いを受けた人でした。


「クラオ、ザ・ミッシング・リンク」1887年、個人蔵

小原: ダーウィンによる進化論が欧米に衝撃を与えた時期でしたので、猿から人間へといたるミッシング・リンクを埋める存在が注目されていました。そういう時期にこの「クラオ」のような多毛症の子供などをアジアやアフリカから冒険家や学者が見つけてきて、これが猿と人間の間をつなぐ存在だと主張して見世物にしたり、身体を調べたりしました。

——「イッツ・ア・スモールワールド」というタイトルの由来はなんでしょうか?

小原: ご存知のようにディズニーのアトラクションの名前からとりました。1964年にニューヨークの国際博覧会でウォルト・ディズニーがペプシ・コーラ提供のパビリオン「イッツ・ア・スモールワールド」を担当しました。電気仕掛けで歌い踊る世界中の子どもたちの人形の間を乗り物に乗って旅するというアトラクションです。万博における大規模な「エスニック・ヴィレッジ」は、1958年のブリュッセル万博で終わりを迎えますが、映画やアニメ、遊園地のアトラクションなどに引き継がれて残っていきます。ディズニーランドの「イッツ・ア・スモールワールド」は、博覧会における「人間の展示」の残り香みたいなものですが、シャーマン兄弟の「小さな世界」の歌詞をグローバリゼーション下で分断が進んだ今聞くと燦々たる気持ちになるかもしれません。「人間の展示」的なものが今なおいろいろな形で残されていることを示したかったのと、深刻な問題に深刻なタイトルをつけるよりも効果的なのではないかという判断でした。
19世紀後半は、世界が感覚的にどんどん狭くなり、「スモールワールド」化した時代でした。先ほど言ったように人と物の移動が簡単になり、アッパーミドルの人たちが旅行へ行けるようにもなって、トマス・クック社のような旅行業者も台頭します。博覧会に行くことがまずもって小旅行であり、会場では異国の人々や建築物、物、動物に出会うこともできました。大きな危険を犯すことなく、近場の都市部で旅行気分を味わえるという意味では、万博を訪れることは疑似的な世界旅行を体験することに等しかった。だんだんと教育的な側面と娯楽的な側面が融合してくことで、民間による娯楽が前者を凌駕し、企業PRの場になっていくわけですが。

——今見せていただいている資料でもたくさんありますが、今回の展示は何点くらいありますか?

小原: 今回は1,500点くらいです。博覧会だけではなく、サーカスやフリークショー、見世物小屋などを含めて「人間の展示」的なるものは、世界中で長らく行われてきました。ただ、これだけの資料が集められるということは、それだけ多くこの種の展示がそこかしこで行われ、なおかつ人気があった証拠だと思います。これだけの複製物が買い求められたわけですから。

——万博には世界の楽しい物が詰まった明るいイメージがあります。

小原: 特に日本人にとっては「人類の進歩と調和」をテーマに掲げた1970年の大阪万博による明るい未来像が強いのかもしれません。ある時期の万博は、非常に人種差別的な内容の展示も行っていましたし、植民地をいかに統治しているかという国威を国際舞台で誇示するだけでなく、植民地住民を序列化することもしていました。植民地経営を通じた明るい未来像という意味では、確かに明るかったのかもしれませんが。
日本も日清戦争の勝利で台湾を植民地として獲得すると、第五回内国勧業博覧会で台湾館を作り、戦争と植民地経営の成果を国内外に対して見せて国威発揚の場にしました。ヨーロッパに遅れて近代化し、帝国主義国の後を追ったわけですよね。

今のオリンピックは巨額マネーが動くメガイベントになっていますが、当初はオリンピックよりも万博の方が重要なイベントで、オリンピックはそれに付随するようなイベントでしかありませんでした。金銀銅のメダルの授与も元々は、万博で行われていた褒賞制度です。2011年の東日本震災後すぐに招致活動が始まったオリンピックやその後に決まった万博が国民に見せようとする明るいイメージ、そしてそうした国民的イベントに異議を唱えることを許さない空気に対する違和感からこうした資料を集め始めました。1931年のパリ国際植民地博覧会の際にもシュルレアリストらが反植民地博というカウンター・アクションを行いましたが、私自身そうした過去に励まされた面もありましたので、現在を生きている人たちではなく、自分の子供や孫の世代を含めた未来の他者に向けた展示を行いたいという思いもありました。

戦後のオリンピックと万博の成功体験へのノスタルジーが両イベントを招致させたと思いますが、震災からオリンピック・万博までという時代を生きているという意味で私が想起したのは、関東大震災後から1940年の「紀元二千六百年」記念の「幻のオリンピック・万博」までという時間の方でした。30年代と同じような時間を生きる日本人として、ここでまた過去と同じように進路を間違うわけにはいかないのではないか、という思いと人種差別や人々の排外的な感情の火が燃え広がる予感もありましたので、そうした国家イベントが、実際どういうものだったのか、という歴史を改めて検証することで、自分たちの足元を見つめ直したい、という気持ちがあって、ちょうど震災の後から準備を始めました。

あまりにも明るすぎる、目くらまし的な国家イベントの陰に隠れていた植民地の問題や人種差別の問題も直視していかなければならないと思い、10年かけて今回の展示を準備したことになります。私にとっては、長く厳しい道のりでしたが、これで終わらせずに今後も様々な場所で開催し、そこで出会った人たちと一緒に考えていきたいと思っています。

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