2026.9.17 (Thu)
KYOTO EXPERIMENT 2026で上演される、キム・カンヨン、イ・ミンジン、パク・ミンヒによるショーケース公演。本公演は、「韓国国立現代美術館 (MMCA) 」の舞台芸術部門とKYOTO EXPERIMENTのエクスチェンジによって実現する。ソウルと京都、二つの都市で時代の潮流を鋭く映し出す表現を発信してきた両者が、最旬の才能を相互に紹介し、本年度はMMCAからアーティストを迎えた。
今回は、MMCAのキュレーターであるSung Yonghee氏に、MMCAの活動と今回来日する3名のアーティストについてコラムを執筆していただいた。
韓国国立現代美術館(MMCA)の活動
韓国国立現代美術館(以下、MMCA)の舞台芸術部門は、展覧会スタイルによる美術の域を超えて、様々なジャンルやメディア、分野横断的な統合を組み込んだ試みを行っている。2013年に開館したMMCAソウル館のビジョンとして、「ダイナミックな未来の美術、そして豊かな同時代の言説を育むこと」を掲げている。プログラムに特化した専門施設の積極的な整備と運用、つまりは舞台芸術部門におけるブラックボックス型のホールとフィルム&ビデオ部門における映画館、そして実際のプログラムを通して、そのビジョンを実践している。
とはいえ、この公式文以上にMMCA舞台芸術部門を紹介しようとすることは、常にカテゴライズを拒むような活動を定義することが求められるため、繊細な作業となる。韓国では、この領域は「다원예술(多元[ダウォン]芸術)」と称され、独特な、境界をまたがる形態として、潜在的に一元的な定義や制度的な定義を拒否するものである。数年前、日本の現代美術関係者もこの呼称の翻訳に悩み、ひとまず「多元」という漢字を充てることにした。文字通りの意味としては、「多分野的」芸術と呼ぶ方が近いが、標準的、制度的な分類からは抜け落ちていく領域であることに変わりはない。
MMCA舞台芸術部門を単に「多元芸術」の直接的な置き換えと捉えるのではなく、私のキュレーションでは意図的に「演じること」それ自体に焦点を当てている。私はこのコンセプトを拡張し、美術館でただダンスや演劇を上演するというだけでなく、様々な制度やメディア、領域、主体のパフォーマンス性とともに、モノや人間以外の存在が演じることまでを対象としている。まさに多様なモノによる上演とパフォーマンス性をめぐる様々な試みがつながるこの交差点から、標準化されたシステムには簡単に収まらない、過剰と不一致の空間を広げていくことができると期待している。
私たちのブラックボックス型のホールは美術館内にあるため、アーティストとキュレーターは近い距離で仕事をすることができ、創作過程に対して反射的に対応することが可能になる。ただし、新作の創作に注力することで、プログラムを実施する頻度は自然と落ちることになる。できあがった作品をただ上演する通常の劇場とは異なり、私たちは使えるリソースをすべて投入してひとつひとつのプロジェクトを仕上げていく。結果として、リハーサルと準備期間は長期間に及び、ひと月に上演できる作品はひとつだけとなる。この毎月の上演を通して個々のプロジェクトに深く関わることができる一方で、おのずとより即興的な試みや、特に若手アーティストとの自然な対話が可能な場を求めるようになった。こういった欲求から、国際交流にもとづく新しいショーケースプログラムを構築するに至った。このショーケースは、妥協策としてではなく、相互補完的で重要なプラットフォームとして機能しており、2、3日だけの柔軟かつダイナミックな場として、4組から8組のアーティストが集まり、リレー形式で次々と自分たちの作品を紹介していく。
MMCA舞台芸術部門ショーケースについて
2024年に新進アーティストを発掘するためにはじまったMMCA舞台芸術部門ショーケースは、国際交流を促進している。初回は2024年9月にデンマークのアート・ハブ・コペンハーゲンとの協働により実施され、2025年4月に2回目のショーケースがコペンハーゲンで行われた。並行して、2024年9月にKYOTO EXPERIMENTとのパートナーシップがソウルではじまり、最初の交流にはキム・カンヨン、イ・ミンジン、中間アヤカ、荒木優光が参加した。このネットワークを広げ、MMCAは2026年9月にオランダのアーティストとの協働によるショーケースを実施し、続いてオランダでのショーケースを2027年の春に予定している。京都で発表される上演は、この一連の流れが生み出したものである。
ショーケースは主に異文化間の対比、比較の対話という軸を中心に展開される。このプログラムでは、1980年代後半生まれの若手アーティストを取り上げ、その作品を他の都市の新進アーティストによる作品と組み合わせることで、異なる環境や文化的な条件がどのようにアーティストの活動を形成するのかという点を考察しようとしている。ただ、こういった点は単純に対比されるだけでなく、互いにつながり、交差する。ハンス・ウルリッヒ・オブリストは、キュレーションとは異なる要素をつなげ、接合点を作る行為だと述べている[1]。個々の違いと地域的背景を織りまぜ、対比させることで、ショーケースはオルタナティブな視点を提供しようとしている。そして対象を若手アーティストに絞ったとき、より根源的な問いに直面した。「芸術の形式と創作の方法は、世代や場所によって実際に異なるのか。」
キム・カンヨン、イ・ミンジン、パク・ミンヒについて
プログラムの文脈を俯瞰したところで、同じレンズを通して、選ばれたアーティストについてみていきたい。キム・カンヨンとイ・ミンジンは2025年のMMCA舞台芸術部門ショーケースの参加者であり、パク・ミンヒはMMCA舞台芸術部門の2024年7月プログラム「Space Elevator」で作品を発表した。
このアーティストたちの活動を、従来の方法でカテゴライズすることは可能だ。キム・カンヨンは映像とパフォーマンス、イ・ミンジンはダンスと振付、パク・ミンヒは音楽と伝統となる。けれども、ひとたび上演作品を見れば、このような分類よりも、それぞれの作品が持つ独特な思考形態や感覚の方に自然と注意が向くだろう。さらに、3つの個性的な上演を組み合わせたいと考え、なぜMMCA舞台芸術部門とKYOTO EXPERIMENTが協力してこれらの作品を上演しようとしているのか、理解していただけるだろう。
それぞれのアーティストについて、よくあるような経歴紹介をするよりも、私が観客のみなさんに伝えたいのは、アーティストたちが普通の、典型的な上演や活動を行っているのではなく、独自の方法論を構築しようとしていることである。3人のアーティストは、自らの言葉を磨き、新しい感覚を発見しようと、あえて確立された領域や慣習の外で、個人で闘っている。このような紹介方法は、MMCA舞台芸術部門が一貫して大事にしていること-あるひとつの視点や標準化されたシステムには収まらない芸術形式を取り上げる必要性-と緩やかに呼応する。
こういった実践やそこに関わるアーティストたちは、ロージ・ブライドッティといった思想家たちが掲げるノマド的主体として理解することができるかもしれない。あるいは、意味の統合ではなく、感覚の逸脱を現しているかもしれない。その結果、細かく分類したり、作品を定義したりすることはやはり難しいままである。
キム・カンヨンは、感覚的には認知されない世界における階層や構造に関心を持っている。キムにとって劇場は、入口であり、この試みが必然的に失敗する場所でもある。単なる物理的な空間ではなく、フィクションが現実に投影され、一見澄み渡ったように見える世界に想像を重ね合わせる場である。消去されたもの、不可能とされていること、未完であり続けるものを召喚しようとするが、その行為自体が蜃気楼のように流れていってしまう。この認知における限界感や不一致は、京都で上演される『隠された村』における中心テーマである。2024年に初演されたこの作品の出発点が、なぜフランス人印刷業者・発明家エドゥアール=レオン・スコット・ド・マルタンヴィルによって1857年に開発されたフォノトグラフだったのか。フォノトグラフは、人類史上初めて音を形として記録することに成功した装置だった。この装置のさらに興味深い点は、音を視覚化する装置が現代的な意味で「記録」したわけでなく、再生されることのない軌跡だけを残したという点である。キムは、「耳のない音」、機械によって再構築された波形、そしてこの再生産不可能性が明らかにする感覚と現実の不一致について言及しようとしているのかもしれない。この上演は、私たちの感覚が作り上げた現実を超えて、異なる存在や幻想に向かっていく。深く考えれば考えるほど、人間の有限性による限界が劇場を侵食していくことは、必然となる。「相関主義の不可能性」と人間存在以前と以後の時間(祖先以前性)に関する問いについて言えば、この作品は存在の不可能性そのものにアプローチしようとしているのかもしれない。
イ・ミンジンは、今や非常に大きな世界的潮流となった「コンセプチュアル・ダンス」の波を、“地平線の向こう”から観察する。「コンセプチュアル・ダンス」はかつて、振付家の思想を伝えるために言葉を頻繁に参照し、または積極的に活用した。舞台上で、ダンサーは主体および客体として、個人でありながら芸術作品の一部として、同時に存在する。境界線上で揺れることを求められるダンサーは、どのように応答すればいいのだろうか、どちらかを選ぶのか、どちらかを捨てるべきなのか。イ・ミンジンは、「その中間」にいること、あるいはどちらかを選ぶこと、そのいずれも望んでおらず、どちらでもある、またはどちらでもないことを求めているようだ。この欲求の中で、作品は本質的かつ困難な問いを提示することになる。踊る身体は、表現の責任、表象への期待、アイデンティティの証明による構造的要求から、解放されうるのか。流行や義務、アイデンティティの証明から逃れようとすればするほど、より強固にコード化され、差別化しようとすればするほど、より明瞭な境界線が表出するという矛盾した状況を、イは受け入れる。これらの記号から逃れようとするのではなく、自身の身体をその上に静かに横たわらせようとする。この紹介文では十分に説明しきれないが、私は最後に、「女性」ダンサーのアイデンティティというシニフィアンそのものが、ノマド的主体の位置、固定できない場所にあり続けるということを付け加えておきたい。
最後に、パク・ミンヒの作品について説明することは、さらに挑戦的となる。パクは、社会的文脈、そして韓国の伝統声楽であるガゴク(歌曲)、ガサ(歌辞)、シジョ(時調)を学ぶなかで直面した現代的な問いを、音楽を通して、音楽の中で明らかにするからだ。これらの伝統声楽は、韓国の観客にとってもいまだ親しみのある分野ではない。私たちが歴史をさかのぼるとき、伝統音楽については朝鮮王朝期のパンソリを表面的に認識するところで止まってしまうが、パクの音楽は朝鮮王朝期を超えて高麗王朝までたどり着き、これらの時代に埋め込まれた、複層的な文化的、社会的条件を深く探求する。さらに、ガゴク(歌曲)の歌詞を再編成・再統合し、発声における間の取り方、あるいは音楽を身体の中を循環する状態へ復元するなど、近代化と脱構築を進めるパクの音楽活動は、型どおりのものとはかけ離れたものだ。西洋的覇権を拒絶した伝統とは正反対に、近年パクは資本主義に関する現代的、総合的な問いを補完し、音楽を超越する普遍的な感覚と音を通して、周縁に追いやられた存在たちをつなげようとしている。ロームシアター京都 ノースホールの暗闇の中で響くいにしえの声は、固定化された伝統ではなく、停滞を拒むある種の先送り―身体の中で身体をつなげ、絶え間なく切り拓いていくような作業なのかもしれない。過去の伝統と未来形を行き来しながら、つなげられた声もまた、ある種の不可能性として提示される。
3つの上演作品すべてに、不可能性が点在している。特定のキーワードに頼るのではなく、私は、不可能さを考え続けようとする3人のアーティストの困難な試み、実在する身体と存在の避けがたい限界に制約されながらも、もう一つの世界へ向かって一歩前へ進む、はたまた後ろに下がる、痛ましいまでの姿を見守ろうとしている。上演される作品自体が、具現化された構造であり、具現化された人間の一時性である。もしも、一緒に上演を体験することで、ちょっと変わっているけれども何か刺激的なことが私たちの有限性の中で感じられるとしたら、それは何だろうか。
本テキストはSung Yongheeによって執筆されたが、MMCA舞台芸術部門を共同でキュレーションしたKim JaeyeonとLee Somiの考えや文章を共有し、テキストに取り込んでいる。また、本テキストの一部は、先行文献等を参照しているほか、韓国語から英語への翻訳にあたっては部分的にGoogle Geminiによって翻訳を行っている。
[1] ハンス・ウルリッヒ・オブリスト『Everything You Always Wanted to Know About Curating But Were Afraid to Ask』Sternberg Press、2011年