2021.10.11
magazine
2021.12.3
このレビューは、KYOTO EXPERIMENT 2021 SPRING「批評プロジェクト 2021 SPRING」で選出された執筆者3名に、KYOTO EXPERIMENT 2021 AUTUMNのプログラムより1作品についてのレビューを執筆いただいたものです。
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和田ながら×やんツー『擬娩』レビュー
「想像と身体」
文:吉水佑奈
擬娩とは、「妻の出産の前後に、夫が出産に伴う行為の模倣をする風習」を指す。本作はこの風習のフレームを借りて、演出家・出演者ともに妊娠・出産未経験の者たちが、その身体的性に関わらず妊娠・出産をシミュレートする作品である。出演者は、2019年初演時にも参加した俳優2名(1名は声のみの出演)と、公募で選ばれた10代の3名がキャスティングされた。また、コラボレーターとしてメディアアーティストであるやんツーが参加し、スマートフォンの画面を映すモニター、りんごの像を形成し続ける3Dプリンター、膨らみ続ける赤い風船、動き回る掃除ロボットなど、機器に囲まれた舞台空間が作り上げられた。
出演者たちは、セグウェイ(搭乗者なしに自立して走行し、劇中では出演者の一人のように扱われる)に先導されるようにして登場し、起床から就寝までの日常生活を身振りによって一斉に再現する。このとき、彼らは手で触れた物の名前を呼びながら、その動作を行う。すなわち、寝転がって「スマホ」と言いながらその液晶で時間を確認し、立って「パン」と言いながらそれを食べ、あぐらをかいて「キーボード」と言いながらそれに指を打ち付け、「自転車」と言いながらそれに跨り、「シャワー」と言いながら髪を撫でるといったマイムである。再現の一周目が終わると、セグウェイから発される女性の声の指示で、彼らは妊娠検査薬を試し、唐突に妊娠が判明する。
彼らは日常を二周、三周と再現するが、その繰り返しのなかで妊娠が進み、生活は変容してゆく。一周目と同様の生活を行おうにも、「シャンプー」と言いながらその匂いに嘔吐したり、「ペン」と言って握ったものの集中が続かず勉強ができなくなったりする。仕事ができなくなる、ごはんが食べられなくなる、マクドナルドのポテトが食べたくなる、部活に出られなくなる、起きられなくなる、学校に行けなくなる。彼らはその状態を、「食べ悪阻(づわり)っていうらしいです」「お腹が張ってくるらしいです」などと伝聞調で説明する。こうした反復は、身体的性や年齢・生活に関わらず、妊娠がもたらす変容の大きさや、それによる困難をわかりやすく表している。
とはいえその身振りからは、精到さが欠けているように感じられた。それぞれの身振りは極端に簡略化されているため、手に触れた物の名前が発されることなしに、それが表す行為を認識することは困難であった。ここで言葉は、生活が理不尽に変容させられるという状況のシミュレートにおいて、シミュレートの前提となる日常における身振りの具体性を補うために用いられていた。このように、舞台空間において言葉が優位となることは、身体から雄弁さを失わせていたように思われる。すなわち、未経験の妊娠について語尾に「らしいです」と付けて語ったり、手に触れた物の名前を発して日常生活を立ち上げようとしたりすることで、擬娩の〈場〉である身体の具体性が薄れ、妊娠におけるさまざまな問題が、ただ事象として表されてしまっているのではないだろうか。その結果、三回の反復が表そうとする生活の変容は、教科書的な知識の提示・共有であるように感じられた。より身体を重視することで、擬娩を行う出演者とそれを目撃する観客、という図式を超え、観客をもその行為に巻き込むことが出来たのではないだろうか。
同様の優位性は、クライマックスとなる分娩の場面でも感じられた。この場面では、舞台中央に身体的性が女性の高校生が立ち、前屈みになって腹部や腰骨を抑え、叫ぶようにして実況する。「腰骨が軋む」「骨盤が開く」「子宮口が十分に開かない」といった状況が、「痛い痛い痛い」という絶叫とともに語られる。しかしその痛みは、主に叫び声と顰める顔によって表される。つまり言葉とその語り方が重視され、身振りは想像を掻き立てる要素として扱われない。その結果、「痛い」という叫び声だけが強く印象に残った。
また、同場面を女性の高校生が担っていたことには疑問を抱いた。擬娩というフレームは、身体的性に関わらず、あらゆる人間に等しく起こる出来事として妊娠・出産を捉えることを可能にする。それにも関わらず、何故出演者のなかで最も妊娠・出産を行う可能性を有している人間が分娩のシーンを担ったのか。さらに言えば、彼女以外の出演者が足首付近まで隠れる長い丈のパンツを着用しているにも関わらず、彼女のみショートパンツであり、クライマックスのシーンにおいては、その衣装によってより身体的性が強調されているようにも感じられた。
加えて、セグウェイの声が女性であったことも、身体的性の強調として捉えられた。セグウェイは妊娠検査薬を試すように指示をしたり、自身の出生(生産)過程について語ったりと、出演者とその周りを囲む機械のあいだを繋ぐような存在であると共に、妊娠・出産のことを最も理解している人物のように描かれていた。しかしその声が女性であることは、擬娩というフレームを用いているにも関わらず、妊娠・出産を女性のもの、女性の苦痛として描いてしまっていたのではないか。より性別が不明瞭な声にすることも可能だったのではないかという疑問が残った。
一方で、出演者が胎児役と妊婦(妊娠者)役に分かれ、マイクを通して対話する場面からは、出演者のシミュレートを観客へと伝播させる可能性が感じられた。
この場面は日常の二周、三周の反復の間に挿入されるが、ここで胎児役は、いつになれば会えるのか、自らの存在によって苦しんでいないか、何か問題は生じていないかと問いかける。その問いに対し妊婦(妊娠者)たちは答えに窮しながらも、婉曲的に状況を伝え、それでも大丈夫と繰り返す。出演者を代えて二度繰り返されるこの対話では、どちらにおいても伝聞調は使用されない。
ここでは、それまでの日常の反復において明示された変容が、言語化によってより強調される。しかし妊婦(妊娠者)らは、変容や苦痛の原因である胎児との会話のなかで、理不尽さへの怒りや苦しみを言葉にせず、むしろそれを隠し、胎児を慈しむ。さらに彼らは身体的に繋がっているものとして描かれ、胎児役が「えい」と言いながら小突く、あるいは蹴るような動作を行うと、妊婦(妊娠者)役は「痛っ」と腹を抱えながら反応する。つまり出演者らは妊娠しているという状態を〈演じて〉いるのであり、ここで伝聞調が使用されていないことは、彼らが胎児と妊婦(妊娠者)という当事者の身体感覚を想像しながら対話しているからであるかのように感じられた。
本作は、擬娩というフレームによって妊娠・出産を捉え直すという点で意欲的である一方で、その経験をいかにして目撃している観客に想像させるのかという部分では課題が残ったのではないか。
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吉水佑奈(よしみず ゆうな)
神戸大学大学院人文学研究科芸術学専修博士後期課程。アントナン・アルトーの演劇理論について研究している。