2022
10.1
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10.2
演劇
magazine
2022.11.28
『再生数』を見たつもり
入ると正面にデカいスクリーンがあるので「スクリーンがあるな」と思い、席に着いた。場内は客席の構造も含めて映画館を踏襲したような設えになっている。舞台らしい広がりや奥行きといったものはなく、目の前には劇場の床面と置き換わるように設置された垂直のそれが立ち塞がる。
ここに来るまで想像していたのは、例えば舞台上にパフォーマンスをする人とそれを撮影するカメラマンがいて、撮影された映像が「もう一つの(複製された)現実」として今ここの現実の上にリアルタイムで重ね描きされていくといった趣向のものだった。二年ぐらい前に同じロームシアター京都のノースホールで見たスペースノットブランクの作品でも映像がそういう演出効果として用いられていた記憶がある。今回は「映画」ということで、それがいくらかスケールアップし、物事がより複雑な状況へと向かっていくようなことを覚悟していたのだが、実際訪れてみると、何が始まるのかはよくわからないが、とにかくデカいスクリーンがあるというとてもシンプルな状況が待ち受けていたので、少しホッとした。
スクリーンの上にはノースホールの楽屋を映した映像が映されている。そこに出演者らしき人物が現れて前説を始める。国際舞台芸術祭ということで画面下部には英語字幕が表示される。全体を貫くように表示され続ける文字列は映像を美的に仕上げ、映像を映像たらしめる(むしろそっちが狙いであるように思えた)。「上演」時間は約125分とのこと。この前説の後に続いて始まった「上演」は、大雑把にいうとこういうものだった。「出演」とクレジットされている出演者(以下俳優と書きます)は、基本的に楽屋やロビーやトイレなど、観客がいるノースホールの外、いわば劇場の劇場以外の場所にいて、その各地で「上演」が展開されていく。その「上演」の様子が「出演(カメラ)」とクレジットされている出演者(以下撮影スタッフと書きます)によって撮影され、場内のスクリーンに(中継による若干のラグを伴って)投影される。観客は今ここではないどこか(この辺)で行われている「上演」が、今ここで「上映」されるのを見る。
ようするに観客は俳優の「上演」に直接立ち会うことはなく、常にスクリーンの上に届けられる数秒以上過去の「上演」(事前に録画編集された「リハーサル」の映像が再生されている可能性もある)を映した映像を見るということになる。普通「上演」というと、劇場ないしある設定された一つの空間や場所で時間的・空間的に共有されるものだと考えるけど、『再生数』はそうではなく、会場であるノースホールの壁を隔てて「内」と「外」といった具合に演じる場所とそれを見る場所が分節されている。舞台の見る見られるという不可分の関係が物理的に切り離された後、カメラとスクリーンを使って再び繋ぎ直されるのである。
いつも劇場で見る舞台や映画館で見る映画、あるいはオンライン演劇と呼ばれるものとも異なる、この出来事との距離感というか間合いがきっとミソなのだろう。今ここに俳優はいないし、スクリーンがあること以外には何も起こっていないが、スクリーンに映る俳優はこのすぐ「外」にいて、「上演」は観客がいるノースホールの外周を取り囲むようにして行われている。その様子はこちらから直接は見えないわけだが、むしろ見えないということが実際の壁を隔てた距離以上の「近さ」を演出していて、目の前で行われるのとはまた違った迫力や臨場感を感じさせるのだった。しかしやっぱりそれはどこまでいっても「外」で起こっている出来事で、結局のところ見ているのは映像でしかないとドライに割り切ってしまえるぐらいには「遠い」。近いと感じることの内に「遠さ」を、遠いと感じることの内に「近さ」を感じるというのが新鮮な感覚だった。
ノースホールが自分にとって馴染みのある場所だというのもあるが、俳優の背後に見慣れた楽屋や通路がむき出しのまま淡々と映されるのが面白いなと思った。そこが「上演」のために整えられた場所ではないからといって、無理もしないし無視もしない。その場にある鏡や椅子や床をあるがまま、ただそこにあるからといった態度で関わったり関わらなかったりしていく。スクリーン越しに映る光景であっても、今自分がいるここよりもいくらか生き生きとして見えた。
劇場にいる間は今この場で何が起こっているのかというのが主な関心事なので、どういった趣向のものであれ、そこで語られる言葉や扱われるイメージの内容よりも、それらが今ここに何をもたらしているのか、見ている自分も含めたこの現場の全体的な状況が問われるものであってほしいと思う。だからスクリーンの内側で起こる「上演」の内容を問題にする前に、今ここに何か出来事を予感させるものがないかと考える。もう一度辺りをぐるり見渡してみると、目の前にはやはりデカいスクリーンがあり、それをじっと見つめる観客の一方的な視線があり、そのあいだには暗闇が広がっている。あとはたまに外から漏れ聞こえてくる俳優の声とか気配とか。それに飽き、場内にいるスイッチャーやオペレーターの手つきや息遣いなどにも耳を澄ませてみる。考えてみると、観客にとっては出演者である俳優や撮影スタッフよりも出演者ではないスイッチャーやオペレーターの方が近い存在なのだった。しかしそのことを全く感じさせないというのがプロの技術であり、プロの美学なのである。なるほどと腑に落ちて、またスクリーンの方に注意を戻した。
映像を見るのに集中し始めて、気づけばそれなりに時間が経過していた。とても充実した時間だったが、その間のことはあまり覚えていない。かっこよく計算された配置と構成、小気味良いカット割、さまざまな映画的な技法を(ときにわざとらしいほど)存分に活用しながら、力強い戯曲の言葉とイメージがパワフルに立ち上げられていくのをまじまじと見つめていた。常に彼らの間で共有されている美意識に基づいた最適解が提出されるといった感じで、そこに破綻はないし、ノイズが入り込む余地もトラブルが起こる隙も見られない。そのことに不満があるわけでもない。
目の前で流れている映像よりも常に過ぎ去ったイメージの方へ思いを馳せ続けるような時間。アマプラのような10秒巻き戻し機能はなく、そうこうしている間も「上演」は続いており、イメージは更新されていく。現在と過去が複層的に入り交じるなか、興味を引いたものや理屈を超えてグッと来たものについて思い出し、考える。
「わたし、見たいものしか見ない派だから。」
「それ人間一般の習性だから。」
というセリフが聞こえてきて、ハッとする。人は自分が見たいものでさえ本当は見ていないんじゃないか。むしろそれが「見たいもの」であるほど見たつもりになっているんじゃないか。スクリーンの上の映像に没入すればするほど何かを見て、何かを考え、何かを受け取ったつもりになる。この文章を書くために公演を二度見に行ったのだが、二度目も相変わらず(一度目に見たときと同じように)何かを見たつもりになり、ああよかったなと満足して帰路に着き、適当に腹を満たして、さて何を書こうかと振り返るが、何がどうよかったのか思い出せず、お前はしょうがないやつだと嘆いては、またしばらくしてそのことも忘れ、今こうして書くのに苦労している。日々そうして記憶と忘却を繰り返し、生きている。
その中でもよく覚えていたものは、時折画面に映り込む、俳優が身につけていた衣装のナイキのロゴ(スウッシュ)だった。俳優の多くがナイキの服や靴を身につけていて、そういえば二年前にノースホールでやっていた上演を見に行ったときも俳優の何人かがナイキの靴を履いていた気がする。それにどういうこだわりがあるのか(ないのか)はわからないが、あの鋭くしなやかにグイーンと伸びる形が、目まぐるしく移り変わるイメージの中をサバイブするための手がかりとなり足場となったのだった。人は見たいものを見たいようにしか見ないが、せめて自分が見たいと思えたものぐらいはちゃんと見たことになっていてほしいと思う。
<執筆者プロフィール>
福井裕孝(ふくい・ひろたか)
1996年京都府生まれ。演出家。人・もの・空間の関係を演劇的な手法を用いて再編し、その場の状況を異なる複数のスケールやパースペクティブから再提示する。近作に『インテリア』(2018,2020)、『シアターマテリアル』(2020,2022)、『デスクトップ・シアター』(2021)など。下北ウェーブ2019選出。2021年度ロームシアター京都×京都芸術センターU35創造支援プログラム“KIPPU”選出。2022年度よりTHEATRE E9 KYOTOアソシエイトアーティスト。