2022
10.14
-
10.16
演劇
magazine
2022.12.9
水とともにあり続けるわたしたちを、慈しむ
関西をめぐりめぐる「水」について、3年間もの周到なリサーチをもとに公演を行なった今回のKansai Studiesは、その思索のすえに、なにを演劇作品に昇華したのか、あるいはしようとしたのか。
Kansai Studiesとは、KYOTO EXPERIMENT独自の、リサーチを主体としたプログラム。アーティストが中心となり、京都や関西の地域文化を対象に数年間のフィールドワークを行い、そこで発見されたものや、そのプロセスで起こった出来事や思考を、自由な形で作品にし発表する。
今回発表されたのは、参加アーティストである建築家ユニットdot architectsと、演出家・和田ながらによる演劇作品『うみからよどみ、おうみへバック往来』。
この2組のアーティストは、2020年から2022年までの3年間の調査で、まず「水と琵琶湖」について、次に水の恵みをいただく食事である「お好み焼き」について、最後に「循環」へと視野を広げ、山から川、そして水田、さらには湖や海へと、思索を深めたという。
しかし本作は、その研究結果を集約しただけのものではない。過去から現在、そして未来まで、脈々とこの関西に流れゆく「水」のあり方を、アーティスト自身はどのように眼差したのかということをこそ、本レビューでは特筆したい。
「複数の短編からなるオムニバスの演劇作品」と各広報媒体の紹介文にもあるように、一貫したストーリーがあるわけではなく、俳優もその時々で役を変えるのだが、その背後には強いテーマ性を感じる上演だった。
舞台には、ゆうに2mはある細い鉄パイプが24本(6×4)立てられていた。張り巡らされた数本の細いワイヤーが、自立できないパイプたちを頼りなく支えている。
舞台は3方向から客席に囲まれていた。舞台と客席との隙間には、自然や文化に関するようなさまざまな物——丸太や角材、盛られた土砂や藁や石、コンクリートブロック、数点のグラスや琵琶など——が並べられていて、これから始まる“水と関西文化”を題材にした芝居へと、われわれの精神をチューニングしてくれる。
ほかにも、舞台上はたくさんの物で賑やかだった。漫才でよく見るサンパチマイクが中央に立っていたり、唐突に丸太が立っていたり、SRスピーカーが縦積みされたりしている。隅にはなにやらテーブルと、ブラウン管テレビが置かれている。そして客席のない奥の一辺には、俳優が7人、静かに座っていた。
芝居は、漫才から始まった。ごきげんな音楽とともにごきげんな男女が二人、走ってきて、サンパチマイクを挟んで立つ。親しみやすい関西弁で、関西の水の流れを、大阪湾から淀川、宇治川などの河川をなぞって琵琶湖へと、順に説明してくれる。関西文化を題材にしているだけあって、本作はユーモアとして“関西のお笑い”が全体的に意識されていたと思う。漫才の裏では、7人の俳優が動き出していて、周囲の丸太や角材を線上に並べ、その上を不安定そうに渡っていく。関西の水の流れを、立体的に説明しているようにも見える。この、言葉だけに頼らず、視覚化しながら作品を立ち上げる演出は、一貫して随所に見られた本作の特徴といってよい。
また終演して思うが、この、土台の安定しない感じ、常にグラついている感じは、始めから終わりまでずっと作品にまとわりついている雰囲気そのものだった。鉄パイプに俳優の体が当たり、その振動がワイヤーを伝って舞台全体を揺らした。
漫才の直後に挿入された、一人の男によるモノローグが、なんとも示唆的で印象深かった。
大阪湾からほど近い、矢倉緑地公園からの風景。遠くからでも目立つ派手なデザインの、舞洲にあるゴミ処理場による埋め立てによって、大阪北港の陸地は延長され続け、海を狭めていく。人の手が自然へと介入していく様が、こんなところでも見られる。
どこからか、サックスの音が聞こえる。誰かが練習しているのだろう、見渡してみると、ごま粒ほどに小さい奏者の姿がある。しかし、この音色が大阪の街まで届くことはきっとないだろう、と、まるでわれわれの生活と自然との距離を風刺するかのように、男はしみじみ独りごちるのだった。
さて今度は、どうやらお好み焼きの擬人化された姿らしい三人の男女がやってきて、それぞれのお好み焼き文化の違いについて、楽しげに立ち話を始めた。だがキャベツの話題になったところで、突然、テレビ画面に映し出された謎のパストアップの中年男性(その正体は最後まで謎だった)が会話に割って入ってきて、キャベツの生産地について、何やらうんちくを傾けだす。話では、そのほとんどが国産らしい。以降も、各ワードが話に出るごとに、小麦粉はアメリカからの輸入が大半であること、豚肉は豚の餌となるトウモロコシのことまで考えると国内自給率は低いこと、油の原料となる大豆の生産量はブラジルが最多であることを、誰も訊いていないのに教えてくれるのである。その結果、三人のお好み焼きたちは、関西の代表的料理だと思っていたお好み焼きが、思いがけず海外からの輸入によって保たれていることを知るのであった。
この、謎のおじさんが明らかにした、お好み焼きという馴染み深い料理でさえそれがどのように作られているか知らないまま日々味わっているわれわれの危うさと、先の男のモノローグ——街まで届くことのないサックスの音の話とが、重なってくるようである。どのようにお好み焼きが保たれているかということは、遠いサックスの音のように、われわれの生活に関わってこない。dot architectsの家成俊勝は、KYOTO EXPERIMENT 2022フェスティバルマガジン掲載の対談記事のなかで、次のように語っている。「生産や物流、そしてそこに通う水に対して自分がいかに末端かつ間接的な在り方をしているか」「現在のあらゆるシステムは政治や経済も含めて間接的にできている。だから自分と関係しているひとつ手前までは分かっても、そのもっと向こうは見えないんですよね。その見えなさが、現在の歪みを生んでいます。」
中盤、関西の「水」事情の深さの一端に触れるシーンが続く。琵琶湖から京都へつながる水路の歴史から始まり、琵琶湖に浮かぶ沖島の人々がどのように水と関わり合ってきたか——氾濫などによる水害を解決するため、多大な労力を費やして西野水道という放水路を築いたことなどが、擬人化を交えた劇化によって語られる。それは、先代たちが水に生かされながらも苦しんできた、まさに水との歴史の縮図だ。そして、歴史は移りゆくものであるように、舞台上もまた、その見た目を物理的に変えていく。周辺に陳列されていた丸太や角材や石が、一斉に舞台に上げられたかと思えば、直立に立ち並べられていく。足元がグラついて不安定ななか、藁がワイヤーのそこかしこに吊るされ、なんだか物々しい。ついにはチェーンソーまでもが持ち出され、その場で切り出された木材に、砂埃が舞う。凪が時化(しけ)になるように、圧迫感を増していく。あらゆるマテリアルが屹立していく様子は、時代とともにビルの階数を増やしていった人間社会の変遷のようにも思われた。
ずいぶん荒んだ舞台の真ん中で、琵琶湖が擬人化された姿である女性が一人立ち、自身の半生についてモノローグをはじめる。傍目には楽しげに見えるが、なぜか語気の節々には心労が感ぜられる。ところがやはり、自身が誕生から40万年もの間、地形を変え所在を変えながら存在してきたことについて語り出すと、いよいよ様子がおかしい。「何度も所在を異にしてきた私は、本当に“私”なのか?なにをもって私(琵琶湖)とするのか?」と、話すうちに自己を見失っていくのである。芝居全体にずっとまとわりついていた土台の不安定な雰囲気が、ついに絶頂を迎える。人の営みにある意味では振り回され続けた琵琶湖の、切なる叫びにも聴こえた。
またこの、女優が一人、モノローグのうちに狂気に苛まれていくような姿に、筆者は、昨年秋に京都芸術センターにて上演された和田ながら×やんツー『擬娩』のラストシーンを懐古していた。そこで描かれた、今まさに子を産まんとしながら叫び続ける母親の姿は、自分の身体から自分とは別の人格が産まれ/生まれということにアイデンティティの危機を覚えているかのように筆者には思われたものである。もしかしたらこうしたテーマは、和田ながらという作家がいま抱えている指向性なのかもしれない。その指向性が琵琶湖に思いを馳せたときに現れたのが、この狂気感なのだとしたら、とてもおもしろいと思った。
約95分の上演を締めくくったのは、作品にさらなる厚みをもたせる、未来と過去が交錯するシーンだ。二人の男女の何気ない日常、それを一人の男が興味深そうに眺めている。どうやら、男女は現代の人間だが、眺めている男は2072年の未来のKansai Studiesのメンバーで、過去である2022年の生活を調べているらしい。現代のKansai Studiesが過去を遡って「水」の巡りを調べたように、時代もまた巡っていく。2022年の人間である男は、ゴミ収集の仕事をしていて、住宅の各ゴミ捨て場を収集車とともに元気よく回る。そしてある地点に着くと、作品タイトルの回収にもなる、男のセリフで幕となる。バック停車のため「オーライ、オーライ」と誘導し、停車させたところで、大きく「オッケーイ!」と合図するのだった。
関西の「水」をめぐる歴史を描きながら、そこに込められた人々の思いや、人間の業のようなものにも注視し、それらを慈しむかのように制作された『うみからよどみ、おうみへバック往来』。擬人化が表現に多用されていたのは、水の歴史の側に立ち、想像しようとしたからではないだろうか。
丹念な調査を下地にした本作はわれわれに、日々の生活のなかで見逃しやすい世界とのつながりについて考える機会を与えてくれる。われわれを生かしてくれている根拠に、時には立ち返り、そしてまた日々を生きる、そういう往来が、もっとあっていいのかもしれない。
<執筆者プロフィール>
美女丸 (びじょまる)
ソキュウ主宰。作劇、演出を務める。大学で演劇を知り、活動を開始。最新作の第六回公演『あてがわれた幸福』(2022)では、戦時中とその後の汚染された世界で、それでも命を生きることしかできない男女二名のさりげない会話劇を描いた。KYOTO EXPERIMENT「批評プロジェクト 2021 AUTUMN」最終選考作品選出。