2023.12.6
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2023.12.6
30年の時間を一つにした舞台にみる、現実とドラマとその可能性
感染症の影響とテクノロジーの進化が相まって、対面のコミュニケーションが少なくなったり、世界的な情報への容易なアクセスが可能となり、ここ数年で、時間や、人と人との物理的・精神的な距離を考える機会が増えた。その流れにおいて、マリアーノ・ペンソッティ / Grupo Marea『LOS AÑOS(歳月)』は、時間と、それに付随する人との関係や出来事をテーマとして、時間と距離がドラマを生むということを見事に表現した。このレビューでは、作品テーマそのものを端的に表現した舞台美術、歳月の因果をユーモラスかつ冷酷に表した設定、そしてこの作品が志向する表現の希望について考えたい。
全く同じ構造の二階建て家屋が二つ並列される舞台美術が、本作の大きな特徴である。舞台向かって左側が作中では過去パートの2020年、右側が作中の現在である2050年と設定される。30年を隔てた2つのタイムラインを、主人公マヌエルの娘ラウラがストーリーテラーとしてシームレスに語る形式で進行し、2020年ではラウラ演じるその俳優がラウラの母でありマヌエルの妻であるクラウディアを演じ、2050年ではラウラ自身と父親マヌエルの関係が描かれる。2020年、ブエノスアイレスでマヌエルは、友人マティアスとテオドーラと共に、助成金を用いてアルゼンチン建築についての映像撮影をおこなっている。その活動の中でマヌエルは偶然に少年ラウルと出会い、彼を被写体にしたドキュメンタリー映画を一人勝手に撮影し始める。その映像がきっかけとなりドイツで映像作家として著名になったマヌエルは、2050年、30年ぶりにブエノスアイレスへと帰ってくる。前提となる設定としては以上の通りであるが、2020年と2050年を行き来しながら進行し、それぞれの時代の出来事を編み込んだ形でプロットが組まれる。またマヌエルが撮影する映像は舞台セットの二階部分に投影され、水平方向の2つのタイムラインと、垂直方向の2メディア(映像と演劇)が一つの空間に共存する。物理学者カルロ・ロヴェッリは著書『時間は存在しない』の中で、そのタイトルの通り、「時間はすでに、一つでもなく、方向もなく、事物と切っても切り離せず、「今」もなく、連続でもないものとなったが、この世界が出来事のネットワークであるという事実に揺らぎはない。」と述べた。まさに時空間を一つとしたこの舞台美術は、「今」は存在せずに、二つの年代を往還しながらそこで生じる「出来事」そのものを描写する。ドラマと言い換えてもよいネットワークとしての出来事と関係性を前景化した舞台美術が、本作がテーマとする時間と関係性を端的に表現している。
舞台美術では一つの空間に存在させた二つの時間だが、もちろん30年間は圧倒的な年月であり、その長さを表現するのに巧みな設定と台詞が用いられる。例えば、2050年は、過剰な環境対策を原因として鹿が大量発生するという災害が起こっていたり、アルゼンチンがEUの保護下に入るためもう一度スペインの植民地化を望む「新植民地党」の存在などが語られたりする。台詞によってあまりにも軽々しくユーモラスに語られるこのテーマの根本にあるのは資本主義社会のアクチュアルな問題で、環境破壊や経済搾取を端的かつあり得るかもしれない近い将来の代弁として深刻さを帯びている。30年間という決して短くはない時間の想像を台詞で軽やかに表現した脚本の魅力はもちろん特筆に値するが、この30年間の長さを人はどのように捉えるかということそれ自体が観客に問われているように思う。2020年、一人で生きる少年ラウルを撮影したことで社会的に成功したマヌエルは30年後の2050年、その映画によってラウルの人生が好転したのではないかと期待し無責任にも現在の彼を捜索する。マヌエルの知りたかった内容としては最悪の結果が待っているが、それこそが少年にとっては決して短くはない30年間という年月の経過の結果である。また一方でマヌエルにとっては30年という年月があったからこそ、その少年に対して低い解像度から生じる態度を取れたともいえる。私たち観客もまた、過程のない30年の起点(2020年)と現在(2050年)を、時間を一にした空間で同時に見ることで、彼らのドラマに心動かされる無責任な存在となる。軽々しく30年という歳月を飛び越える美術による開放感とそこに共存する無責任さを明らかにすることで、本作はドラマと冷酷さを帯びた歳月のイメージを双方向から描くのに成功した。
アルゼンチンでは、国内の建物が西洋の建築物の複製として建てられたが、逆にヨーロッパ内の建築物は戦争により壊滅し、アルゼンチン国内にある(西洋の複製としての)建築だけが残ったという事実がある。国が独立した後もそれらの建築は西洋を内在する形で残り続け、宗主国の文化が自国ではなく旧植民地国で長く生き続けるという倒錯が発生した。「助成金」により、(ヨーロッパの複製としての/コロニアリズムの象徴としての)アルゼンチンの建築についての映像を撮るということ自体が、その進む先に「西洋」が内在しているが、しかしその副産物として生まれたのがマヌエルによるドキュメンタリーであった。マリアーノ・ペンソッティはインタビューの中で、「ある人が人生を通じて経験する変化が、ユートピアとそこから生まれる破綻した社会との関係に似ている」と答えている。まさにマヌエル自身の30年間を行き来する本作は、彼自身の中に内在する2020年と2050年、そしてその間の30年間で植民地・西洋・資本主義・キャリアの成功という経験から生じるアイデンティティの倒錯・混乱が発生しているとも考えられる。しかしマリアーノ・ペンソッティは本作を悲愴的に描いただけではなく、描かれる出来事はエモーショナルなドラマも用意されている。2つの時代を並行して描く作品ではあるが、決定論的ではなく、2050年を現在と位置付けることでむしろこの後に無限の選択肢があるという希望が感じられるのだ。本作の終盤あたり、過去パート2020年のマヌエルに「プランがないことがプラン」という台詞がある。それは映画『パラサイト 半地下の家族』で、現代韓国社会への諦観から発せられる「何も計画しないことが最高の計画だ」という台詞に非常に似ているが、全く異なるもので、その後2050年に成功者となったマヌエルが、冷酷な時間の原理を超えて、未来の無限の方向性を含んでいる希望の台詞と私は感じた。
現在多くのハリウッド映画はマルチバースや拡張化というテーマが流行しており、描かれなかった時代をスピンオフで明らかにしたり、全てがどこかで繋がっていたりすることが感動を創出している。その一方で本作は、あたかも流れる時間は存在しないような美術を採用しながら、30年という年月を間の過程を省いて淡々と描いた。時間や年月を否定するのではないが、そこに抗おうとはせずに受け入れながらそれに付随するコミュニケーションや人間の距離がドラマを生み出す、その潔さや美しさを本作では志向しているように感じた。最後にもう一つ、作中で面白い2050年の状況として、映像やSNS文化の代わりに演劇が人気を博しているという設定がある。メタ的に考えると、イマココを志向する演劇の可能性を強く肯定しながら、イマココだけが信じられることがポジティブな可能性であると示しているように思える。時間の流れや人との距離を再考するということは、同時に演劇そのものの可能性を信じることに繋がるのかもしれない。
<執筆者プロフィール>
上鹿渡大希(かみかど・だいき)
1997年生まれ。2020年横浜市立大学国際総合科学部卒業。2020年4月から公益財団法人札幌市芸術文化財団 市民交流プラザ事業部に所属し、札幌文化芸術劇場 hitaruの主催事業制作業務等を担当している。SPACふじのくに⇆せかい演劇祭2022 劇評コンクール入選。