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【批評プロジェクト2022】文:田中淳士

2022.11.30

撮影:吉見崚

2022年10月1日、2日に上演されたフロレンティナ・ホルツィンガー『TANZ(タンツ)』のレビューです。批評プロジェクト 2022での審査を経て、ウェブマガジンへの掲載レビューのひとつとして選出されました。選出作についてはこちらをご覧ください。

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わたしは、あなたとは違うやり方で宙を舞う

『TANZ(タンツ)』はダンサー・振付家のフロレンティナ・ホルツィンガーによる、19世紀初頭のロマンティック・バレエについての調査を下敷きに制作された作品だ。本作はバレエと同様に複数の幕で構成され、数々の古典的なバレエの要素が散りばめられている。しかし、ミニマムな舞台装置で構成されたこの舞台で表現されるのは、一般的なバレエの様式美的なオマージュではなく、バレエ作品の眩さから私たち観客がみようとしてこなかった周縁の物語だ。第一幕ではバレエ教室を舞台に「老教師」によるバレエの基本動作指導の様子を描くことで、バレエの型・制度が風刺される。第二幕ではバレエ作品がホラー映画やアクション映画のように翻案され、サーカスのようなアクロバティックな演技で彩られることで、バレエの型・制度の破壊と再生が描かれる。バレエを題材としつつも、この舞台で提示されるのはバレエとは異なる方法で訓練された「表現する身体」だ。その身体はバレエの美学的型に「従順な身体」から、また観客から欲望をもって眼差される対象としての「見世物にされた身体」から解放された身体だといえる。

女性パフォーマーのみで構成される本作品において、このフェミニズム的な主張が暗喩的に、しかし効果的に示されているのは、第一幕における『春の祭典』と第二幕における『ジゼル』のモチーフの対比だ。まずは第一幕の内容を概観していく。第一幕の舞台は、現代において最高峰と名高い振付家J・ノイマイヤーの振付で『春の祭典』を裸で踊ったプリマ、ベアトリス・シェーンヘルのバレエ教室だ。そのバレエ教室では、一糸まとわぬ姿の「老教師」が、自分の身体をコントロールするための基本的な足のポジションや姿勢についての指導を行っている。しかし、レッスンを進めるうちに「老教師」は女生徒に服を脱ぐことを求め、女生徒たちは「老教師」の指示によって順番に、そして最終的にすべての衣服を脱ぎ捨てることとなる。ここでは自分の身体をコントロールするということの意味が、自由に舞うという目的から「身の処し方」という手段へとその意味を変え、自分の身体をコントロールする力を得るためのものであるはずの指導が「他者による身体支配の方法」へと変化する。しつこいほどに時間をかけておこなわれるレッスンを1つ終えるたびに女生徒たちは1つの型を手に入れ、しかし同時に1枚ずつ衣服を脱ぎ捨てていくことになる。第一幕はそのほとんどが各レッスンの描写にあてられており、この時間の経過を感じさせる演出によって、女生徒たちの思考がゆっくりと1つずつ奪われ、支配されていく姿が効果的に描かれている。この演出によって、自己決定権を脅かされ従順であることを求められた女生徒たちは、『春の祭典』の「神への生贄として踊らされる乙女」と同様の役割を付されることとなる。

同時に、このバレエ・レッスンのシーンで特徴的に感じられたのは、女生徒たちがそれぞれバラバラにトレーニングウェアを脱ぎ捨てていく度に、着衣と脱衣の入り混じったチグハグな印象の身体がたちあがってくる点だ。彼女たちは一貫して「身体をより良く見せる」こと、つまりバレエの美学的型の背後にある、センセーショナルな身体を求める観客からの欲望の眼差しを拒絶している。この拒絶は衣装をすべて脱ぎ捨ててからも力を失わない。そこにあるのはただ裸の女性が眼前にいるという事実の提示だ。これは「老教師」の裸体についても同じことが言える。世界と自己との接触面としての皮膚は、他者の視線や情動を阻むバリケードとなる。皮膚があらわすのは心理化された彼女たちの人物性ではなく物質的な現象でしかない。いかなるものも肌の下に押し入り「魂」を覗き見ることはできないのだ。この事実は彼女たちの自己決定権を堅守し力を与える。また、この物質としての皮膚の提示は、彼女たちの若く美しいとされる女性身体と「老教師」の年齢を重ねた女性身体が並置されることで、わたしたち観客の「美しさ」や「肉体美」の基準を揺さぶり、バレエに歴史的に内包されるセンセーショナルなものとして身体を意味づけようとする眼差しを、より一層効果的に非官能化する。

一方で、裸体を晒した女生徒たちを前に、「老教師」はビデオカメラでのポルノグラフィ的な撮影を始める。その映像は舞台上の大型液晶にリアルタイムで投影され、断片化されクロースアップされたその窃視狂的映像から、観客は舞台から目をそらさない限り逃れることはできない状況に置かれる。そして女生徒たちの不満げな表情が液晶に映されるなか、「老教師」が歓喜の声を上げながらヴァギナへの講評をおこなっていくシーンで第一幕は閉幕する。このような一般に男性のものととらえられている「女性を性的に意味づける」行為を、年齢を重ねた女性の身体を持つパフォーマーに表象させていることは本作品の演出において痛烈な批判性が込められているのではないだろうか。ここでは、非官能化、つまり自己決定権獲得のために男性優位社会で形成された「お仕着せを脱げ」というフェミニズム的主張が女生徒たちの衣服を脱がせるが、それは同時に「老教師」が自身を満足させるための「お仕着せ」になってしまっているという皮肉なカリカチュアが存在する。ここにきてわたしたち観客は、「老教師」が身体を非官能化する術を開演時から体現していたはずの存在であったことを知り、しかしすでに彼女はロマンティック・バレエが内包していた従順な身体を訓練しようとする主体へと成り下がっていることを知るのだ。

これに対して第二幕では、自己決定権を脅かされ、バレエ制度の「生贄」に捧げられてきた女生徒たちは、『ジゼル』の「森に迷い込んだ男を死ぬまで踊らせる精霊」にその姿を変え、「老教師」への復讐に転じる。第二幕は、椅子に拘束され自由を奪われた「老教師」が大量の血糊とともにネズミを出産する姿をビデオカメラで撮影されるというシーンから始まる。女生徒たちがバレエ・レッスンによって「従順な身体」を手に入れるために体験した苦痛と危険が、妊娠と出産の苦しみに擬えられ「老教師」に与えられる。そこでは「神への生贄として踊らされる乙女」の犠牲の役割は、「精霊に死ぬまで踊らされる男」へと転化させられる。しかし、これまでの抑圧はそこで留まることはない。気絶しうなされる「老教師」を意に介することなく、元女生徒たちは悪夢のような宴を繰り広げる。ある者は手足をのこぎりで切り落とされ、残った者も互いに銃を向け合い、重火器で掃射される。そして舞台は大量の血で汚されることとなる。最終的に彼女たちは独自の方法で、風を司る妖精シルフィードのように宙を舞う身体を得ることを目指し始める。このような「身体の自己決定権」の行使には、第一幕から予兆があった。例えば第一幕終盤では、あるものは自身の毛髪で自身の身体を天井へと吊り上げ、あるものはスタントマンのように天井に吊り下げられたバイクによじ登り身体を投げ出す。そして第二幕において、一人のパフォーマーが肩甲骨付近にワイヤーのついたかぎ針を突き刺し宙を目指すことで、この「身体の自己決定権」の行使、その誇示は最高潮を迎える。これらの暴力的な表現群は、第一幕から重ねて、重力を感じさせない儚い妖精的な女性像を投影する他者の視線・情動を打ち崩し、ロマンティック・バレエに求められたものとは異なるセンセーショナルな身体を提示する。

この狂乱のなかで特徴的なのはバイクというモチーフだ。バイクのモチーフは、第一幕終盤まで布で覆い隠されている。これはバレエ・トレーニングの裏に隠されていた、身体のありようを支配しようとする男性的欲望の暴露とみることができる。実際、人間の身体能力と比したとき、その速さからときに乗り手の命を奪うことさえある過剰なスピードやパワーをもつバイクは、大きすぎる力を与えられた制度的男性中心主義の表象として捉えることができるだろう。しかしこのバイクは宙を舞台にしたとき無力化される。天井に吊り上げられエンジンを吹かしながらも空転するタイヤは本来の機能を果たさず、わたしたちをどこかへつれていくことはない。しかし彼女たちはこれを乗りこなし、従順に従わせていく。しかし、今度はそこで元女生徒たちが、ロマンティック・バレエが内包していた従順な身体を訓練しようとする主体へと変化していくような不穏な気配を残して本舞台は幕を下ろす。このような「お仕着せを脱げ」というフェミニズム的主張が自身を満足させるための「お仕着せ」になってしまう可能性を、重層的に孕んだカリカチュアの構図としても観ることができるからこそ、この作品は単に女性を性的に意味づける眼差しへの女性の反抗というだけでなく、「私のものとしての身体の解放」という主題へとつながる広がりを持つものであるといえる。

最後に本作品において、最も印象的であり且つ観客にショッキングな印象を与えるであろう第二幕におけるサスペンション・パフォーマンスについて触れる。サスペンションとは、複数の大きなかぎ針で皮膚を貫き自分の身体を吊り下げるパフォーマンスだ。本作品では、演者の一人が肩甲骨付近、つまり天使の翼の位置にかぎ針を突き刺し、10mほどの高さに身体を吊り下げ空中でくるくると舞うパフォーマンスがおこなわれた。サスペンションという表現について、70年代から80年代にかけて、25回にわたり自身の身体でサスペンションをおこなった現代美術家のステラークは、自身のパフォーマンスを「身体の肉体的パラメータと通常の能力を示すことによる身体の探知と穿鑿」であると述べている(Stelarc.1995)。一方で、サスペンション自体は見世物小屋やサーカスの演目としてしばしば行われるものでもある。ステラークは自身のパフォーマンスを芸術として行っているが、その自己認識を除いてその表現する身体に本質的な違いは存在しない。

では、いかなる要素が本舞台を芸術作品として成り立たせているのだろうか。その際には、これまで度々触れてきた「身体の自己決定権」が鍵概念となるだろう。ホルツィンガーはサスペンションという表現に、バレエとは異なる方法で「見世物にされた身体」を見出し、また同時にハイカルチャーとエンターテイメントの境界を打破しうる可能性を見出したのかもしれない。先に述べたステラークのサスペンションにおける身体の肉体的パラメータと通常の能力提示は、バレエ・トレーニングの成果としての従順な身体の能力提示と共通性があるといえる。なぜなら、そこでは表現されるものよりも表現する身体に比重が置かれているからだ。この一種の拷問的な行為は、女生徒たちがバレエ・トレーニングによって「従順な身体」を手に入れるために体験した苦痛と危険と同様のものを伴っている。皮膚の伸張、概念拡大によって身体という密閉された器から脱出することの企図は、他者の視線や情動を阻むバリケードの拡張であり、本作品においては、自由な身体の獲得を目指すものとなるのだ。

モダン・ダンスの祖と言われるイサドラ・ダンカンは、世界にバレエを広めたアンナ・パヴロワの純白のチュチュに包まれた姿やポワントにみられる宙を舞う妖精的な身体を「不自然な、強いられた身体」と評した。ダンサーの足を変形させ時に血まみれにするバレエシューズはその象徴であるともいえる。そのように考えたとき、サスペンションのためのかぎ針はバレエシューズと同様の性質を持ち始める。しかしここで一度確認しておきたいのは、ホルツィンガーが各所で明言しているように、本作ではバレエを批判することは目的とされていないということだ。誰もが自身の身体を好きに扱う自由があり、バレエダンサーがバレエシューズを履き重力に逆らうように、彼女たちは翼のつけ根をかぎ針で貫き宙を舞うのだ。この身体の自己決定権という点で、本作品はダンス史における身体性の問題に対して新たな理念を提示する作品となっているといえる。

わたしたちの姿はあなたたちが舞台に期待する姿とはかけ離れているかもしれない。だけどわたしたちは確かに、自分のやり方で自由に宙を舞っている。『TANZ』の公演はわたしたち観客にこうささやくかもしれない。その時、この公演がみせる世界から目を背けることもわたしたちはできる。それこそが「身体の自己決定権」であり、その行使をわたしたちに迫ることこそが、本作品の芸術的意義であるといえる。

引用
・Stelarc,1995, Von Phyco- zu Cyberstrategien. Prothetik, Robotik und Tele-Exsistenz
・DUNCAN, Isadora, Sheldon Cheney (ed.), 1928, The Art of the Dance : Isadora Duncan, Helen Hacket (小倉重夫(訳編), 1977, 「イサドラ・ダンカン 芸術と回想」, 冨山房)

 
<執筆者プロフィール>
田中淳士(たなか・あつし)
京都大学大学院 人間・環境学研究科博士課程在籍。文化政策研究。

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