2026.10.5 (Mon)
10月22日〜25日に新作演劇『コンダバ川日誌』を上演するkondabaの石原菜々子と金子仁司。京都市伏見区の「中書島(ちゅうしょじま)」や淀川水系でのフィールドワークから作品を立ち上げるという二人の日々のリサーチに、KYOTO EXPERIMENTスタッフが密着。ここでは二人が伏見の歴史に詳しい若林正博さんにご協力いただいたインタビューを掲載します。伏見の歴史から、地元生まれ・地元育ちという若林さんならではのローカルなこぼれ話も。知っておくと鑑賞がより楽しみになる基礎知識も満載です!
まずは「伏見のいろは」から。
街を発展させたのは、実は徳川だった!?
——今日はよろしくお願いします。これまで中書島や淀川についてフィールドワークやリサーチを続けてきましたが、まだまだ断片的な理解も多くて。まずは「中書島とは、地理的・歴史的にどんな場所だったのか」について、若林さんに解説いただけたらありがたいです。(石原・金子)
承知しました!それでは、中書島を含めた「伏見(ふしみ)」という地域全体の話からはじめましょうか。16世紀末に誕生した伏見城(※1)を支える旧城下町として発展したのが伏見のまち。この地は古くから京都・大坂・奈良・大津の中継地。宇治川を含めた4つの川が流れることから水路・陸路ともに交通の要衝で、築城とともに整備されました。そして、お二人がテーマにされている中書島は、この城下町の南西端の一区画でした。その名の通り、かつては宇治川により隔てられた「島」でした。
伏見のまちは「総城下町」と呼ばれるほど壮大な規模で、城と町を外堀で囲い込む都市構造を有していました。その立役者となったのが、ご存じ豊臣秀吉。築城に必要な資材を運ぶため、川港である伏見港を開いたことでも知られていますね。
とはいえ最初に伝えておきたいのは、秀吉が伏見を拠点としたのは、1590年代半ばから亡くなるまでの数年程度。その後、関ヶ原の戦いで焼失した城を再建したのが徳川家康です。以来、1623年頃に廃城となるまで20年以上にわたって、城を初期幕府の政治・軍事の拠点としたのは徳川家でした。その意味で「伏見城は秀吉が築き、徳川家が運用・発展させた」というのが、より正確な歴史認識になると思います。
豊臣秀吉が築いた伏見城と城下町の推定図。「中書島」の名の由来は、この地に屋敷があった脇坂安治の役職名「中務大輔」の唐名“中書”から。(出典:「伏見桃山御殿御城之画図」1881年国立国会図書館デジタルコレクション)
——なんと! 早くも意外な事実をお聞きし、驚いています……
関西人は何かと秀吉びいきなところがありますからね(笑)。大坂城を築いて都市を発展させたこと、農民からの立身出世のストーリーも愛される理由でしょう。明治期には、王政復古への流れのなかで、徳川の権威を弱めるために豊臣を再評価する動きもありましたし……。とはいえ歴史研究においては、「徳川の伏見」という側面から見ないといろいろな辻褄が合わなくなってしまうのです。
徳川家康が、将軍としては江戸城よりも伏見城の方にいた期間が長いというのも、あまり知られていない事実です。「1603年から江戸時代」と日本史で習いますが、関東に全国を治める統治機構があったのは鎌倉時代まで。そこに突然首都を移すわけですから、それなりの準備期間が必要です。家康は1603年に征夷大将軍となり、2年後に将軍職を退き「大御所」となりますが、1606年に駿府城に移るまでの期間を伏見で過ごしていたのですよ。
——家康、めっちゃ伏見好きじゃないですか! 一方で廃城後の伏見が心配になります……
そこはご安心を。江戸時代に、伏見は京都と大坂を結ぶ水上交通の要衝となりましたから。中書島のすぐ南を流れる宇治川が淀川となり、大阪湾までつながっていたからです。1623年頃に伏見城が廃城となった後も、伏見港を拠点に人や物資が行き交う拠点として、宿場町として繁栄を続けていきました。土地によっては、城と同時に城下町も破棄されますから、これは当たり前のことではありません。織田信長の居城、安土城がまさにそれ。周囲に城下町の面影は一切残っていません。
時代は戻りますが、徳川二代将軍 秀忠(在位1605-1623)も伏見城で将軍宣下を受けましたし、折にふれて上洛しましたが、その滞在先は二条城ではなく伏見城が多用されました。大坂夏の陣で秀忠は伏見城から出陣しましたし、界隈には著名な大名屋敷が立ち並び、古田織部の屋敷では茶をふるまわれています。
因果はめぐる!?
明治以降の伏見のレキシを細見
——伏見城は「伏見桃山城」とも呼ばれますね。安土桃山時代という呼称もありますが、実際に城内に桃が植えられていたのですか……?
1596年に落成した伏見城が位置したのは、現在「桃山丘陵」と呼ばれる丘陵地。廃城後に城の周囲に桃の木が植えられたことから、桃山と呼ばれるようになりました。といっても、天守など城郭の主要エリアは幕府が立ち入り禁止にしたので、桃畑になったのは、それまで大名藩邸があった場所です。宅地であったため、痩せた土地で比較的育てやすい桃を植えたのでしょう。当時の桃は高価な作物で、年貢を納める糧となりました。
ちなみに幕末に海外貿易がはじまると、海外で日本茶の人気が高まり、桃畑は総じて茶畑へ変わります。実は明治10〜20年代の伏見の主要産業は製茶だったんですよ。
——伏見がお茶の産地だったとは! 時代に合わせて地元の人々は適応していくのですね。
明治期の伏見は、暗黒の時代でしたからね……。戊辰戦争の最初の戦いである「鳥羽伏見の戦い」が伏見の市街地で勃発し、まずは戦災復興という課題に直面します。さらに、参勤交代がなくなったことで、宿場町が衰退。港町としての機能も弱まりますが、大阪と伏見の間に蒸気船を就航させるなど新たな活路を模索していきました。
ところで伏見城の本丸跡は、大正時代に「明治天皇の陵墓(伏見桃山陵)」となります。豊臣から徳川へ、そして天皇家へ……歴史の因果に驚かされますよね。「なぜ伏見だったのか?」といえば、明治前期に既に本丸付近の土地が皇室の御料地として買い上げられていたことがあるでしょう。「生まれ故郷である京都の地で眠りたい」と遺言されたという話もありますが、最初は御用邸(別邸や別荘)が想定されていたのかもしれませんし、本当のところはわかりません。ただし、当時の国際状況を鑑みると、列強の国家元首としての大規模な墓地が必要であったように思います。
——お城の周辺は昭和期に遊園地になったと聞きました。伏見出身の若林さんは、こちらでの思い出はありますか?
「伏見桃山城キャッスルランド」ですね。1964年に開園し、2003年に閉園したのですが、目玉のひとつが鉄筋コンクリート造の模擬天守でした。ですから、学校の授業でお城の写生に行ったり、夏のプールに友達と遊びに行った思い出がありますよ。波の出るプールやスライダーもあって、当時としては本格的でした。丘陵地にあるため、園内の高低差もうまく使っていたように思います。坂を下ったところに、恐竜のハリボテが並ぶアトラクションがあったのですが、今思うとあれば昔の濠跡の谷筋なんですよね。
遊園地閉園後も模擬天守だけは残されたが、諸般の事情で立ち入りは不可。閉園以降にテレビ番組のロケで、ピエール瀧さんと最上階まで登ったという若林さん。京都盆地はもちろん、あべのハルカスまで見える“天下人の風景”だったとか。
伏見といえば酒どころ。そういえばなぜ?
——ところで伏見といえば、全国屈指の酒どころです。発展のきっかけを教えてください。
伏見は「伏水」と書かれることもあり、上質な伏流水に恵まれた土地。桃山丘陵をくぐった清冽な水が、市街地の地下水脈から汲み上げられているんですよ。酒づくりは桃山時代からありましたが、産地として飛躍的に発展したのは明治時代。1896年の鴨川運河※2の開通時にインクライン(傾斜鉄道)が設けられ、その動力として設置された水車のおかげです。大量の精米が可能となり、廃業した旅籠や、戊辰戦争で焼けた土地の活用と相まって酒蔵の立地が進んだのです。また黎明期の鉄道によって、全国へ出荷されていきました。
——確かに伏見では明治以降に創業したり、この地に移転してきた蔵元が多いですね。
江戸初期に伏見で創業して現在まで続くのは2軒くらいでしょうか。産業の発展にはひとつの条件では不十分で、複数の要因が重なったときに、生産量や物流量が爆発的に増加します。現在の伏見は、兵庫・灘に次ぐ国内2位の生産量を誇っていますから、この時期に大きなイノベーションが起こったということでしょう。
……なるほど!都市や産業の発展は、常にさまざまな要因が重なり合っているんですね!
※1 豊臣秀吉は伏見に二つの城を築いた。最初は1592年に指月の丘に築いた城(指月伏見城)で、1596年の大地震で倒壊。その後、同年に伏見山に場所を移して再建し、1597年に完成した。若林さんによれば、後者の規模は壮大でおそらく地震前から構想・準備されていたものではないかとのこと。
※2 鴨川運河:琵琶湖の水を京都へ引くために整備された「琵琶湖疏水」の一部。1894年に完成し、鴨川から伏見までを結んで、琵琶湖から伏見を経て淀川・大阪へとつながる舟運を支えた。
【お話を伺った方】
若林正博さん
京都府立京都学・歴彩館 京都学推進課 課長。伏見生まれ、伏見育ちの地域史研究者。著作に「伏見城跡の変遷—近世〜現代—」(『京都学・歴彩館紀要』3、2020年)などがある。