2026.10.9 (Fri)
10月22日〜25日に新作演劇『コンダバ川日誌』を上演するkondabaの石原菜々子と金子仁司。京都市伏見区の「中書島(ちゅうしょじま)」や淀川水系でのフィールドワークから作品を立ち上げるという二人の日々のリサーチに、KYOTO EXPERIMENTスタッフが密着。今回は伏見の歴史に詳しい若林正博さんにご協力いただいたインタビュー「後編」をお届けします。伏見や中書島から、淀川水系をめぐるあれこれも。知っておくと鑑賞がより楽しみになる基礎知識も満載です!
川や河原は誰のもの?
時代によって異なる「土地」についての考え方
——伏見や中書島でのフィールドワークを続けるなかで、地域に身近な「川と暮らし」にも関心を持つようになりました。すると、そもそも川は誰のものなのだろう、なかでも河川敷は公共と私有のあわいのような存在ではないのだろうかという疑問がわいてきました。(石原・金子)
まず前提として言えるのは、伏見のまちが生まれた420年前から現代までをひとつの価値観で貫くことはできません。江戸時代と明治時代では明らかに「土地の所有権」に対する考え方が変わっているからです。現在は「公の土地か」「個人の土地か」という二択ですが、江戸時代は公と個人の間に「共有」という概念がありました。それは、現在でいう共有名義とは異なり、「漠然と土地を共有するという概念」「みんなのものであり、誰のものでもない」というもの。その意味で、かつての河川は誰の所有物でもありませんでした。ただし、漁や舟の運行について定められたルールが守られるよう、奉行所がレフリーのような役割を担っていました。
——となると、河川を埋め立てて土地を有効に使うという発想は、明治以降に生まれたものなのでしょうか。
その通りです。明治期に「河川は行政が管理するもの」という概念ができてから、近代の埋め立てがはじまりました。管理区域を水面にするか陸地にするかを、行政が判断するようになったわけです。「土地の所有を明確にする」という時代の転換期では、うまく立ち回って土地を売却して望ましい結果を得られた人もいれば、そうでない人もいた。この動きのなかで、地域で山を持ち続ける「村有地」が生まれたり、ひとつの山を個々に分けることも行われていました。
——中書島や伏見でも、埋め立てが行われたようですね。この地域における目的は何だったのでしょうか。
川の埋め立ては、明治期の鉄道の敷設により水運が衰退したことによるものです。舟が航行する川幅を保つより、陸地にして宅地や商業地にした方が経済的ですから。現在の「龍馬通り商店街」の入り口にかかる蓬莱橋は、明治期の写真を見るとかつてはかなり長い橋で、川幅が広かったことがわかります。中書島駅の西側にアンダーパスがありますが、これもかつての川の名残です。
ちなみに、現在の中書島駅北側にある「東柳町」「西柳町」は、江戸時代から続く市街地です。当時はその南側に水田や湿地が広がっていましたが、明治以降に埋め立てや地盤強化が進み、「南新地」などの商業地が生まれました。
……現在の南新地は、昭和レトロなスナックや銭湯が並び、とても風情があります。実はkondabaとしてこの地域をリサーチしたいと思ったきっかけのひとつが、この南新地の風景でした。まさかそんな歴史があったとは……!
近代化が変えた「川のかたち」と「川の役割」とは?
——京都と大坂を結ぶ「淀川」についても教えてください。江戸時代に整備された東海道ですが、五十三次でなく、終点を大坂とする「東海道五十七次」という考え方もあるそうですね。新たに加わる4つの宿場は、いずれも淀川沿いにあったそうですが、街道は淀川の水運とともに栄えたのでしょうか?
江戸時代に「東海道の延長」として発展したのが大坂への東海道。日本橋と京都・三条大橋をつなぐ五十三宿とは別に、「4つの宿(伏見、淀、枚方、守口)」を加えたものです。伏見と大坂の間は京街道とも呼ばれ、淀川のすぐ東岸を通っており、街道と舟運は相乗効果で発展していきました。たとえば「枚方宿」の界隈は、京都と大坂を行き交う「三十石船」に小舟で近づき、乗客に「酒くらわんか、餅くらわんか」と声をかけて食べ物を売る「くらわんか舟(煮売舟)」でにぎわったと伝えられています。この舟は、淀宿でも見られていました。
わたしが興味深いと感じるのは、大阪と京都を結ぶため1910年に開通した「京阪電車」が、比較的淀川に沿うように敷設されていること。とくに中書島から枚方までは、淀川にかなり近いところを走っているんですよ。
——ということは、京阪電車に乗ることで、かつての舟旅を追体験することができるのかもしれませんね……!
かつて淀川の水運を介して人やモノ、文化の交流・交易が行われてきた地域を「淀川文化圏」とでも呼ぶのか、現代は京阪電車がその代わりを担っているのかもしれません。わたしは伏見生まれで、京阪沿線の高校に通っていましたが、なんとなく淀川東岸の京阪沿線と、川向こうの西国街道沿いの阪急沿線とは親近感が違うように感じていたものです(笑)。
インタビュー後に訪れた「市立枚方宿 鍵屋資料館」にて。水陸交通の要衝であった枚方宿の歴史を学べます。
江戸時代の舟運と街の姿を描いた『淀川両岸一覧 4巻』より(1861年発行、暁晴翁著 / 松川半山畫圖。出典:京都府立京都学・歴彩館歴史資料アーカイブ)
——ところで、明治期以降の近代化は「川のあり方」に影響を与えたのでしょうか。
大きな影響を与えていますよ。川が果たす役割が変わったことで、そもそもの川のかたちが変わり、時には流域すら変わっていますから。というのも、水運で利用されていた頃の河川は、今よりも大きく蛇行していました。蛇行することで流れが緩やかになり、舟が上流へ進みやすくなるからです。
しかし鉄道網が発達すると川の役割は「治水」、つまり水害を防ぐことに変わります。川を直線化して堤防を築き、できるだけ早く水を海へ流すことを第一に考えるようになったのです。その代表的な例が、淀川下流で行われた「新淀川の開削」。実は、現在の淀川大堰から下流の淀川は1896年に着手された淀川改良工事で新たに開削されて生まれた「新しい川」。それ以前の旧淀川は、現在の大川です。
同じような変化は東京の荒川でも見られますよ。ドラマ『3年B組金八先生』のオープニングで、金八先生と生徒が歩く風景がありますよね。ズドンとまっすぐな川と、広い土手の映像が思い浮かぶと思いますが、あの川は実は、大正末から昭和初期にかけて「荒川放水路」として新たに開削されたものなんです。一方で江戸の水運を支えた隅田川は、現在でも蛇行しているところが多いです。
——もはや川の位置すら違うとは……。わたしたちが「立派だなあ。雄大だなあ」と眺めている風景の多くは、近代化が生んだ風景だったのですね。
一方で、旧淀川に目を向けると、江戸時代の大坂の規模感がよくわかります。当時の大坂の中心だった「船場」は、北に土佐堀川、東に東横堀川、南に長堀川、西に西横堀川と4本の川に囲まれていました。さらに、西横堀川以西には水路として堀が整備された「下船場」がありました。大阪が「水都」と呼ばれるゆえんはここにあります。
——かつて伏見城の南に存在した「巨椋池(おぐらいけ)」についても調べているのですが、巨椋池もまた、時代によって役割や形が変わっていきましたよね。
昭和初期の国営干拓事業によって農地となり、姿を消しましたが、面積約800ヘクタールという巨大な池が存在していたわけですから、地域の暮らしや経済など、さまざまな面に影響を与えてきたといえるでしょう。元々は宇治川・木津川・桂川の三つの川がゆるやかに流れ込んでいました。それが、伏見城から淀城の築城にかけての一連の河川改修で宇治川の遊水地的な池に変わります。かつては川魚の漁も盛んでしたし、視点を変えることで、いろいろな角度からリサーチできるでしょうね! 今後のリサーチと演劇作品を楽しみにしています。
……本日は大変勉強になりました。若林さん、ありがとうございました!(石原・金子)
【お話を伺った方】
若林正博さん
京都府立京都学・歴彩館 京都学推進課 課長。伏見生まれ、伏見育ちの地域史研究者。著作に「伏見城跡の変遷—近世〜現代—」(『京都学・歴彩館紀要』3、2020年)などがある。