2026.8.29 (Sat)
言葉と身体の関係を追求する独自の方法論でコンテンポラリーダンスに新たな視座を切り拓いてきた山下残。代表作『そこに書いてある』は観客一人一人に手渡された100ページの本をめくりながら舞台上のダンサーの動きを鑑賞するユニークな手法で知られる。作品ごとにダンスと振付にまつわる根本的な問いを投げかける山下の姿勢は、日本のダンスシーンに特別の存在感を示してきた。
その山下はアジアのアーティストとの協働においても豊富な経験者としての顔を持つ。このたびKYOTO EXPERIMENT 2026でベトナムのアーティストと新作のクリエーションに臨む山下に、振付家としての今日までの歩みとコロナ禍を経て試みる新たな技法、創作につながる家族の記憶やベトナムで進行中の本の作成、リスクをともなう出版事情など、多岐にわたるインタビューを実施した。聞き手はKYOTO EXPERIMENTの共同アーティスティック・ディレクターでパフォーマンスグループcontact Gonzoとしても活動するアーティスト、塚原悠也が務めた。4回に分けてお届けする。(全4回の2回目/その1を読む)
(構成・文:竹田真理)
2.独学の原点とダンスシーンの変遷
【テクニックに対する視点】
塚原:残さんのユニークな点は、幼少の頃から特定のダンスやバレエを習っていたのではなく、かなり長くバンドを組んで音楽活動をされていたことだと思います。前提となる舞踊的メソッドがないままコンテンポラリーダンスの世界へ入ってこられた。僕自身もそういう背景がありますが、一つのジャンルの中で新たなノイズや文脈を作っていけるのは、後から何かを学んだ人や異ジャンルから入って来た人なんじゃないかと思います。残さんがつくり手として集団を構えたりダンサーを必要とするとき、テクニックに関してはどのような視点で臨まれていたのでしょう。先ほど話されたタイでのクリエーションでは既存のテクニックを持たない人を起用することもあり得たでしょうし、『船乗りたち』の出演者(筒井潤、垣尾優、新宅一平ら)も、みなダンスのテクニックに頼らない、別の方法論で挑む人たちの印象があります。
山下:そうですね。僕が最初にいわゆるダンス教室に通ったのは、「冬樹ダンスビジョン」主宰の振付家、冬樹さんのところなんです。道場のドアを叩いて「ちょっと入れさせてください」と。その時、冬樹さんに言われたのは、いわゆるモダンダンス――当時はコンテンポラリーダンスという言葉はなかったのですが――を関西で、男性でやっている人は片手で数えるほどしかいない、君はかなり珍しい、ということでした。それを聞いて自分の中で「これは競争率が低いな。めちゃくちゃ踊れなくても好きなことができるだろうな」と思ったんです。
塚原:それ以前は音楽をされていたのですね。
山下:はい。関西のいわゆるアンダーグラウンドシーンで、難波ベアーズとか十三のファンダンゴといった場所でバンド活動をしていました。ですが音楽の才能のある人が周りに溢れていて、自分は何かしら身体表現に興味を移していこうとしたとき、舞踏がすごくインパクトがありました。ただ舞踏は80年代後半から90年代前半にかけて、海外と比べて国内ではそれほど盛り上がっていなかった。唯一、京都に白虎社というグループがあり活発に動いてはいたのですが、僕は大阪在住でしたから、大阪でダンスを学べるところを探して冬樹さんの教室のチラシを見つけたんです。そこで学んだモダンダンスが僕のベースです。その後、京都に移って石井潤さんのバレエ教室に通った時期もあります。だから一応、ベースになるテクニックは学んでいますし、初めて習う人間には大変でしたが、積極的に、肯定的に取り組んできてはいるのです。
塚原:ただ、テクニックの習得だけを目指していたわけではないですよね。
山下:ええ。それ以上に創作の意欲がありました。冬樹さんに言われて強く覚えているのは「ダンサーはとにかく十年ぐらい修行をしなさい。十年経って初めて自分の作品をつくるぐらいがいい」ということ。でも十年はとても待てない。そこで当時から周囲にたくさんいた音楽の仲間を誘ってパフォーマンスをやりはじめたんです。1990年前後は花博開催に伴って大阪の街全体がオープンになっていく雰囲気がありました。そんな中、スタジオの外で即興で踊ったり、花博の会場事務局に訪ねて行って、ちょっと空いているところで踊らせてくださいと話をつけたり。テクニック自体は否定せずに学びながらも、とにかく作品をつくりたい思いから、色々な場所での即興や、ミュージシャンとジョイントすることの経験値を重ねていきました。海外に行っても僕はテクニックをシェアするより、現場で感じたものをどんどん作品にしていきます。それがもともと自分のダンスに対するスタンスなのだと思います。
【2000年代:ダンスで「生活していく」時代の到来と、方法論の開拓】
塚原:ここまでのお話はコンテンポラリーダンスという言葉すらなかった時代から、2000年以降、この言葉が定着して、関西でも多くのアーティストが登場してくる時期にあたりますね。2010年頃までは、ワークショップに何回か参加した人がアーティストと名乗りはじめるといった、さきほどの「十年修行」とは対極のような現象も起きました。しかしそこから2020年代に向けては徐々に作家数も公演数も減っていくという状況が訪れました。そうした中で残さんがずっとスタンスを崩さずに活動してこられた背景を伺いたいです。
山下:90年代までは「ダンスで飯を食うなんてあり得ない」と言われていたのが、2000年を過ぎて助成金制度が整備され、ワークショップの機会も増えて、ダンスで生活していける可能性が見えてくる時代に入りました。2001年にJCDN(ジャパン・コンテンポラリー・ダンス・ネットワーク)が設立され、伊丹のアイホールも関西の若手アーティストを取り上げるようになり(*)、学校の授業にダンスのワークショップが組み込まれるなど、どんどん仕事が増えていったような状況でした。音楽業界では80年代、食べていくためにメジャーレーベルとの契約は必須とされていたのが、90年代に入って自分たちでインディーズレーベルを立ち上げ、無名でも全国をツアーしながら生活していける状況がすでにあった。少し遅れる形でダンスでも、関西で自分たちのスタンスで作品を作り、国内ツアーやワークショップをしながら生活していける状態になりました。僕はその流れに乗って忙しくさせてもらった面があります。同時に、それだけで生涯行くのは難しいだろうと思っていたので、どこかで海外展開できる方法や振付家として自立する道を模索していました。
塚原:なるほど。そういう国内の状況で、具体的にはどのような方法論を打ち出していかれましたか。
山下:一番大事にしていたのは「ダンステクニックに拠るのではないダンスのワークショップをいかに成立させるか」です。2時間、3時間の枠で、ダンスの技術がなくても参加者が身体を使い、短いシークエンスを作る、そのためのロジックを開発することでした。例えばアイホールとKAAT 神奈川芸術劇場、山口情報芸術センター[YCAM]で発表した『庭みたいなもの』(2011)という作品では、町に落ちているゴミを拾って、2人以上のダンサーがそのゴミを挟んで対面しながらコミュニケーションします。どこかのギャラリーなら、ちょっとギャラリーの外に出てゴミ拾ってきましょう、そのゴミで2人1組になってコミュニケーションしてダンスを作りましょう、と。こういったシークエンスを作るための方法論を生み出すことに、言葉を使った作品づくり以来、一貫して取り組んでいたように思います。
竹田(構成担当):残さんがワークショップを軸に活動を広げていかれた背景には、2000年代にJCDNなどが牽引した「コミュニティダンス」や「市民参加型ダンス」の広まりや、「誰でもダンスを踊れる」というダンスの民主化につながる気運、またダン活(注:公共ホール現代ダンス活性化事業。一般財団法人地域創造が統括)や自治体レベルでの市民を対象とした事業の普及などがあったと考えていいでしょうか。
山下:そういうタイミングがうまく重なったとは思います。ただ勘違いされたくないのは、ダンスのテクニックなんて要らないと思っていたわけではないということです。テクニックに対して僕は肯定的なんですよね。「踊れなくても面白い」といったムーブメントが一時期ありましたが、僕はそこからは距離を置いていました。身体的なアプローチで作品をつくるけれど、既存のダンス表現とは違った角度から作る。ではどうやって作品をつくるのか。そのことを常に意識してきました。僕はもともとモノクロームサーカスの立ち上げ時に、坂本公成さんと毎晩一緒に練習してダンステクニックを研究していた時期もありますから、舞台に立つ人間の体力や身体性の重要さは認識しています。
【2010年代:モビリティ(移動)とレジデンス(滞在)の時代へ】
塚原:2000年代を経て独自のメソッドを確立されたあと、2010年代に入って「若手」から「中堅」へとシフトしていく時期、残さんはどのような意識で活動されていましたか?
山下:1970年生まれなので2000年代はちょうど30代。2010年代が40代と分かりやすいんですが、この時期はもうほぼほぼ京都にはいませんでしたね。ひたすら移動していたという感覚です。舞台芸術の世界では「モビリティ」ということが盛んに言われていて、旅をする、移動するということが自身にとっての重要なテーマでした。作品づくりというより、むしろ30代に確立した自分の方法論を、どうすればそのまま別の地域で再現できるかということに取り組んでいました。さきほど話した2011年の『庭みたいなもの』も移動を前提とした作品構造ですし。はじめて『せきをしてもひとり』をタイ・バージョンで作ったときからの、モチーフは違いますが、同じ流れにあると思います。
塚原:具体的にはアーティスト・イン・レジデンスの機会が増えたということでしょうか?
山下:レジデンスの機会はいくつもありましたし、あるレジデンス・アーティストがさらに他のアーティストを招くといった形で「うちのレジデンスに来ないか」と誘われたことも、また公演で現地に呼ばれたついでに、じゃあちょっとしばらくレジデンスさせてほしいとこちらから要望したこともありました。どこか知らない土地で過ごすということを一番大事にしていたのが2010年代だったかなと思います。
その3に続く
*『そこに書いてある』、『透明人間』(ワークインプログレスとして『横浜滞在』にて上演)、『せきをしてもひとり』(ワークインプログレスとして春秋座・studio21にて初演し最終的なタイトルは『せき』)、これら三部作はアイホールの企画「Take a chance project」で発表された。
執筆者プロフィール
竹田真理(たけだ まり)
ダンス批評。関西を拠点にコンテンポラリーダンスを中心とした舞台芸術の取材・執筆・批評に携わる。毎日新聞大阪本社版、批評誌「シアターアーツ」「Act」等に寄稿。国際演劇評論家協会会員。