読み物

【インタビュー】山下残×塚原悠也  アジアの身体、言葉と振付、そして一冊の本をめぐって(その1)

2026.8.28 (Fri)

ファーミ・ファジール+山下残『GE14』

ファーミ・ファジール + 山下残『GE14』(2019)

言葉と身体の関係を追求する独自の方法論でコンテンポラリーダンスに新たな視座を切り拓いてきた山下残。代表作『そこに書いてある』は観客一人一人に手渡された100ページの本をめくりながら舞台上のダンサーの動きを鑑賞するユニークな手法で知られる。作品ごとにダンスと振付にまつわる根本的な問いを投げかける山下の姿勢は、日本のダンスシーンに特別の存在感を示してきた。
その山下はアジアのアーティストとの協働においても豊富な経験者としての顔を持つ。このたびKYOTO EXPERIMENT 2026でベトナムのアーティストと新作のクリエーションに臨む山下に、振付家としての今日までの歩みとコロナ禍を経て試みる新たな技法、創作につながる家族の記憶やベトナムで進行中の本の作成、リスクをともなう出版事情など、多岐にわたるインタビューを実施した。聞き手はKYOTO EXPERIMENTの共同アーティスティック・ディレクターでパフォーマンスグループcontact Gonzoとしても活動するアーティスト、塚原悠也が務めた。4回に分けてお届けする。(全4回の1回目)

(構成・文:竹田真理)


1. アジアのダンスシーンとの出会い 

【DANCE BOX と「アジコン」】

塚原悠也(以下、塚原):今年のKYOTO EXPERIMENT(以下、KEX)で山下残さんはベトナムのアーティストとコラボレーションして作品を発表する予定ですが、若いアーティストや観客が山下さんの活動の全体像をまだ追いかけきれてない面もあるかと思いますので、今日のインタビューではその辺りも補完できたらと思います。よろしくお願いします。

山下残(以下、山下):これまでアジア諸国の方々と一緒に仕事をすることが多く、今回のKEXではベトナムのアーティストとの協働に臨みます。最初のつながりは、日本でNPO法人DANCE BOXが”Asia Contemporary Dance Festival(アジアコンテンポラリーダンスフェスティバル)”、通称「アジコン」を、当時拠点を置いていた大阪のフェスティバルゲートで開始していた。そこにプロデューサーの大谷燠さんをはじめDANCE BOXのメンバーにお声かけいただいて、2007年に参加したときです。ジェコ・シオンポ(インドネシア)、ピチェ・クランチェン(タイ)といった舞踊家たちと一緒に作品を発表したことが思い浮かびます。この頃からアジアの国々のアーティストとの交流がはじまったと記憶します。フェスティバルというのは作品を発表するだけではなく、スタッフや参加するアーティストとどうやって交流するかが大事なポイントで、国際的なプラットフォームについてまだ多くを知らなかった僕は、各国から来るアーティストたちが集まる場で話をしたり互いの作品を見たりする中で、考えたり発見したりすることが多かったと思います。

塚原:アジコンが始まったのは僕がスタッフとしてDANCE BOXに関わり始めた2000年代前半でした(*)。その頃、日本のコンテンポラリーダンスシーンではフランスのアーティストなど来日できるようなサポート体制とバックグラウンドのある人たちが主に紹介されていた。もちろん僕もすごく影響を受けてたくさん見に行きましたが、意識的にアジア圏のアーティストを紹介しなければと考えはじめたのは、この「アジコン」が最初だと思います。その後、オリンピックを視野に入れた政府の新しいアジア文化交流政策(**)を受けて、国際交流基金の中に「アジアセンター」が設置され、そこから予算がつき始めたことも背景となって、国内のさまざまなプロデューサーや組織がアジアとの連動を進めるようになるのは、だいぶ後になってからでした。

【アジアのアーティストたち】

塚原:その「アジコン」ではどんな作品を上演したのですか。

山下:『船乗りたち』という作品で参加しました。 2002年から2004年にかけて『そこに書いてある』『透明人間』『せき』という言葉の三部作、つまり言葉をツールとして振付に使用した作品をつくりましたが、三部作の後にすこし言葉から離れて自分の新たな方法を模索したいと思っていたのがちょうどアジコンの時期。海外から来たアーティストとの交流にあたっては、いきなり日本語だらけの作品より、言葉のないフィジカルな作品を発表したいと思ったのを覚えています。その『船乗りたち』は何も喋らずにぐらぐら揺れる筏(いかだ)の上で動くだけなんですが、実は15シーンある振付がすべて言葉で書き起こされていて、それを4人のダンサーで共有します。4人で踊るユニゾンを、筏(いかだ)の装置から降りて平場で崩していく。そして崩した状態を再び揺れる筏の上に戻して踊ってもなお構造を再現できるか、という実験を試みた作品です。次の方法論の展開につながるワークインプログレスをしていた時期ですね。

塚原:他のアーティストの作品はどうでしたか。

山下:ピチェ・クランチェンはとにかく素晴らしかった。20年以上前の舞台ですけど、いまだに鮮明に覚えています。それからジェコ・シオンポ。舞台を終えて楽屋に戻って来た時、はあーっと息を吐きながら「これでよかったのか……」みたいに自問自答しているのがなんだかおかしかった。エコ・スプリヤント(インドネシア)も何回かにわたって来日していて印象に残っています。どのアーティストも、映像で見ていた有名な西洋のコンテンポラリーダンスとは全く違うスタンスや身体性、哲学をバックグラウンドにして作っているのがすごく勉強になりましたし、その影響を今でも受け続けているなと感じます。

塚原:その後、残さんはさまざまな国際プロジェクトで実際に東南アジアの現地へ出掛けていく機会が増えていきますね。例えばファーミ・ファジール(マレーシア)の現場とか、インドネシアでの滞在[注:バリ島の舞踊家に踊りを習う作品『悪霊への道』(2017)に繋がる]など、活動が広がるきっかけは何だったのでしょう。

『悪霊への道』(2017)

山下:アジコンと同じ時期にキュレーターのタン・フクエンに京都で出会ったことがはじめのきっかけです。フクエンから突然連絡が来て、アジアダンス会議[注:第三回アジアダンス会議2007、ITI(International Theater Institute)主催]で、舞踊史/舞踊理論研究の古後奈緒子さんによる関西ダンスシーンのレクチャーがあり、その中に山下の作品の映像が含まれていたと。で、「これなんや!?」とフクエンが興味を持ってくれて、京都に来たついでに「ちょっと話をしたい」と西陣の喫茶店に呼ばれまして。ちょうど今回ホーチミンでのワークショップで塚原さんにも見ていただいた、呼吸を記号化して全員でシェアし、そのダンススコアを作るという方法論を当時からはじめていたんです。その手法を、喫茶店のテーブルの上で紙に書いて説明をしました。そしたらフクエンが「お前は今まで一体何をしていたんだ⁉」みたいな反応で。フクエンは日本のコンテンポラリーダンスの事情通を自認しているにもかかわらず、山下残の名前を一切知らなかったようでした。それで2007年、フクエンがタイのバンコクで関わっていたフェスティバル(***)に呼んでくれました。それが初めて東南アジアの現場に行ったきっかけです。タイに行った時にはすでにピチェやジェコたちを知っていたので居心地がよかった。その時、のちに一緒に仕事をすることになるマレーシアのファーミ・ファジール(注:2018年マレーシア総選挙を背景にしたドキュメンタリー・パフォーマンス、ファーミ・ファジール+山下残『GE14』で協働)とも出会いました。

塚原:タン・フクエン、面白い存在ですよね。シンガポール出身ですが、この頃はバンコクを拠点に東南アジアのアーティストを精力的にキュレーションしていき、さまざまなプロジェクトに関わっていたようです。2004年にピチェ・クランチェンとジェローム・ベルを引き合わせて、あの大ヒット作『ピチェ・クランチェンと私』をキュレーションしましたね。残さんと出会ったのもその勢いの中でのことだったかと思います。

【タイでのクリエーションの経験】

塚原:バンコクではその時どの作品を上演されたんですか?

山下:『せきをしてもひとり』です。これは自分の言葉シリーズのど真ん中と言える作品ですね。尾崎放哉の自由律俳句を引用していて、その作品をそのままタイ語に翻訳し、タイのダンサーに踊ってもらうことを試みました。海外で自分の作品をクリエーションするのは、やはり一から作り直す感覚です。言葉を使うことと同時に、「吸う、吐く」という呼吸に合わせた方法論のある作品で、そこはぶれずにやりたいと考えました。タイは伝統や礼儀を重んじる文化がある印象だったので、こういう動作やしぐさはあまりよろしくないとか、迷惑がかかるなといった配慮はしましたね。しかし方法論としてはぶれずに、言葉はできるだけ直訳すると決めていて、タイと日本語の翻訳者の方に現地での創作現場に立ち会ってもらい、文脈や背景を一つ一つ説明しながら、出来る限り忠実に振り付けていきました。

塚原:日本でつくった方法論は、タイの現場でも受容された手応えはありましたか?

山下:そうですね。まあ東南アジア全般に言えますが、ダンサーと名乗る人たちはものすごく身体テクニックが高くて、僕自身が演じるときよりも技術がしっかり加味されてしまう。そこまで足を上げなくていいよとか、そこまでジャンプしなくていいとか、そういったこともクリエーション中に出来る限り伝えながら、最終的にバランスの取れた作品になったと思います。

その2に続く


*アジコン第一回開催は2001年、於:TORII HALL。その後DANCE BOXの移転にともない第5回(2007)まで大阪のフェスティバルゲート内にて、神戸市長田区に移転後はKOBE-Asia Contemporary Dance Festivalと名称を変えて第4回(2017)まで開催された。

**「文化のWA(和・環・輪)プロジェクト~知り合うアジア~」。2020年東京オリンピック・パラリンピックに向けてアジア諸国との双方向の文化交流を推進。尚、国際交流基金アジアセンターは組織再編にともない2022年3月に活動を終了。

***LIVE ARTS BANGKOK: a new performance festival regenerating heritage arts& spaces, dance・theatre・puppetry―


執筆者プロフィール

竹田真理(たけだ まり)

ダンス批評。関西を拠点にコンテンポラリーダンスを中心とした舞台芸術の取材・執筆・批評に携わる。毎日新聞大阪本社版、批評誌「シアターアーツ」「Act」等に寄稿。国際演劇評論家協会会員。

閉じる