2026.9.7 (Mon)
言葉と身体の関係を追求する独自の方法論でコンテンポラリーダンスに新たな視座を切り拓いてきた山下残。代表作『そこに書いてある』は観客一人一人に手渡された100ページの本をめくりながら舞台上のダンサーの動きを鑑賞するユニークな手法で知られる。作品ごとにダンスと振付にまつわる根本的な問いを投げかける山下の姿勢は、日本のダンスシーンに特別の存在感を示してきた。
その山下はアジアのアーティストとの協働においても豊富な経験者としての顔を持つ。このたびKYOTO EXPERIMENT 2026でベトナムのアーティストと新作のクリエーションに臨む山下に、振付家としての今日までの歩みとコロナ禍を経て試みる新たな技法、創作につながる家族の記憶やベトナムで進行中の本の作成、リスクをともなう出版事情など、多岐にわたるインタビューを実施した。聞き手はKYOTO EXPERIMENTの共同アーティスティック・ディレクターでパフォーマンスグループcontact Gonzoとしても活動するアーティスト、塚原悠也が務めた。4回に分けてお届けする。(全4回の3回目/その2を読む)
(構成・文:竹田真理)
3.パンデミック、身体の抵抗、AI時代の「言葉にならない動き」
【パンデミック下の稽古場で】
塚原:2020年代に入り、世界はパンデミックという大きな変化に見舞われました。この間、残さんはどのように過ごされたのでしょうか。先日、ベトナムのホーチミンでのリサーチに帯同した際、コロナ禍の日々での考えや実践が今回の作品に強く影響しているのではないかと感じたのですが。
山下:稽古場の存在が大きかったです。京都の舞踏家の今貂子さんと2000年頃から四半世紀にわたって稽古場をシェアさせてもらっているのですが、何もないときはそこへ行き、一人で時間を過ごすことが増えました。そこで自分の身体をじっくり客観的に見る時間が取れたと思います。「自分の動きたいムーブメント」「振付手法の更新」について時間をかけて考えるようになりました。先日、桃谷で(*)塚原さんにも見ていただいたソロの動きがそうですが、外からは動かずにじっとしているように見せたい、しかし身体の内部では骨の各所や筋肉の移動など、可能な限り制限したミニマムな動きがさまざまに起こっている。そうした身体感覚やテクニックを追求することが面白くなっていますし、今一番やりたいことでもありますね。
塚原:過去に積み重ねてきた方法論とはまた違う、非常に内向的で濃密な試みですね。
山下:そうですね。今回、KYOTO EXPERIMENTと国際交流基金からお話をいただいてアジアのアーティストと作品を作るわけですが、過去の方法論でアジアのダンサーとコラボレーションするといったことは、自分の中では昔に逆行するような、ちょっとオールドウェーブな感じになるんです。 シークエンスを作るための方法論(**)とか作品のモビリティとかにこだわっていると、身体感覚がポンって飛んでしまうんです。けれども、まどろっこしいと思っていた身体に対し、コロナ禍のおかげでこだわりを持てるようになった。今回、ベトナムとのクリエーションでは本を制作することが重要な部分になりますが、さまざまなユニークなアーティストとのコラボレーションの過程で、身体感覚やテクニックの必要性が希薄になってしまわないよう、踏みとどまる。そのような意識を、コロナ禍以降、もつことが出来たと思います。
【言葉にならない動き、AIとダンス】
塚原:ホーチミンでのワークショップですごく印象深かったのが、「言語化されることを逃れるような動き」といった話をされていたことです。インタビューの前半でお聞かせいただいたような「言葉からダンスを起こす」アプローチとは対極的で、ラディカルな変化だと感じます。
山下:そうですね。『そこに書いてある』の時期は、あえて言葉になるための動きをしていました。リハーサルではまず即興で動いてみる、その動きを言葉に書き起こし、構造化していく。僕はほぼ全ての作品で内容を言葉にしてノートに書き留めています。動きを言葉にすることについては20年近くの蓄積があるんです。だからこそ、言葉で捉えられない動きにやはり自然と興味が向いていきます。矛盾しているようですが、僕自身は動きを言葉にしたい欲求を持ちつつ、「こんな動きは言葉に変換できないだろう」というテンションで、日々の稽古場で動きを探究しています。
塚原:言語化やデータ化に抵抗する身体という視点は、現在のAI(人工知能)テクノロジーの進化とも繋がっているように思えます。
山下:僕自身はテクノロジーに関して無頓着ではありますが、AIが人間の身体をすべてキャプチャーし、その場でデータ化するといった技術がどんどん発展していく。囲碁や将棋の世界でも、以前はAIが膨大なデータベースを参考にしながら対戦していたのが、ここ数年でAI自身が戦略戦法を開発して人間に勝つ時代になっている(注:2016年のDeepMind「AlphaGo」勝利以降の展開など)。そんな時代に人間である僕が動きをいくら面白い言葉で書いてみたとしても、思考するAIにはかなわないだろうと感覚として思いますね。けれども、言葉の元になるその動き、データや言語や記号でキャプチャーされ得ないような動きを人間の身体が持ちうるのであれば、そちらを追求する方が面白い。近い将来、人間と全く同じように動けるAIロボットが開発されると思いますが、Alの視点から真似をする価値を見出せないような人間の動きというのがあるような気がしています。
塚原:非常に共感します。僕(contact Gonzo)の場合は集団の中でエラーとかアクシデントを起こしていくことで、プログラミング的な思考や言語化からどう逃げ切るかを考えてきたのですが、残さんの場合は逃げるのでなく構築的な方法で向き合おうとされている。ホーチミンで拝見したセッションも、外見的にはミニマルでアンビエント的でありながら、おそらく脳内では情報処理のされ方がさまざまに変化しているのだろうと想像しました。実際に踊っている時の残さんの脳内では、言語的に時間を刻む情報処理が行われているのか、それともより本能的な、色彩とか景色とか音といったレベルでの知覚と受容がされているのか。どうなんでしょう。
山下:両方ですね。『レコードは風景をだいなしにする ジョン・ケージと録音物たち』というデヴィッド・グラブス(注:アメリカの実験音楽家)という人が書いた本があるのですが、とても影響を受けていて、ジョン・ケージの「レコードは風景をだいなしにする」という偶然性の価値を説く言葉を逆手にとってレコードの素晴らしさを説いた本です。ダンスは空間(風景)と密接に絡んでいるものですが、そのロジックを反転させ、「ダンスは空間をだいなしにする、だからダンス自体が素晴らしい」となると、これはダンサーはもとよりライブパフォーマーにとってコペルニクス的転回で、劇場にせよ野外にせよ周りからの影響に関与せずにいると、脳内というか体内で遊べる要素にたくさん気づかされるわけです。上から下までの背骨、筋肉の収縮、重心移動、姿勢の変化—に対する意識が研ぎ澄まされていく感覚です。
塚原:あえて外部の刺激に対して言語的な文脈処理をしない、ということですね。
山下:先の桃谷の昼公演では上演中、敷地内にゴミ収集車が入ってきまして、なかなか面白い音環境になったのですが、それを「ゴミの収集車が来た、お客さんも気が付いた、だからこんなふうに受けて、絡めて提示しよう」と空間的に言葉で文脈化すると、AIの時代に人間ができるダンスとしては魅力に欠ける気がします。ゴミ収集車が私のダンスに影響を与えているのではなくて、私のダンスがゴミ収集車の音をだいなしにしているのです。耳を塞ぐのではなく、耳を澄ますのでもなく、ただ状況に任せて身体と向き合う。 ホーチミンのプレゼンテーションでも、ひたすら体内の動きに集中し、オーディエンスにはリアクションとして感じたことを、全員で共有する一枚の大きな紙にリアルタイムで絵や記号、言葉でも何でも書いてもらいました。次はこう、次はこう、とタイムラインを進んでいくのではなく、中心もなければ出発点も終着点もない広いカンバスの上に自分の体が侵食していくような、空間的・立体的な価値観から逃れて「平面」の感覚で踊りに入り込んでいます。
その4に続く
*注:5月9日~10日に大阪の桃谷で開催されたパフォーミングアーツのフェスティバル「ダンスアフターダンス」。主催/企画は身体パフォーマンス団体「淡水」。
**インタビューの第2回で山下は、自らのワークショップにおいて参加者が身体を使ってシークエンスを作るための方法論を開発していく経緯について述べている。
執筆者プロフィール
竹田真理(たけだ まり)
ダンス批評。関西を拠点にコンテンポラリーダンスを中心とした舞台芸術の取材・執筆・批評に携わる。毎日新聞大阪本社版、批評誌「シアターアーツ」「Act」等に寄稿。国際演劇評論家協会会員。